ジプシー(ロマ)事情の最近のブログ記事

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ドイツ出身の映画音楽の巨匠ハンス・ジマーがガイ・リッチー監督の『シャーロック・ホームズ』(2009)の続編の音楽を引き受けることになったときは、100本以上の映画音楽を手がけてきたキャリアにまた新たな一本が加わるだけかのように思われた。
しかし、仕事を進めるうちに、もともと政治的関心の高かったこのアカデミー賞作曲家は新しい音楽の方向性とひとつの志を見出した。ロマ(しばしばジプシーと呼ばれる)への関心がそこへ導いたのだ。
ヨーロッパの各地で今も差別を受けるマイノリティーは、移動を続ける生活と風変わりな言葉や文化を理由に侮蔑の対象となり、かつてユダヤ人とともにナチスの犠牲となった。この夏ジマーはいつもの音楽メンバーに加えて民主活動団体のNational Democratic Instituteのメンバーらとともにヨーロッパの7か所のロマ居住区を訪れ、さまざまなミュージシャンの音楽を聴いた。
「中欧の国に行ったのですが、このような貧困は見たことがありません。」ジマー(54才)は言う。「あってはならないことです。」
ロマの音楽に感銘を受けたジマーは、正当な2セッション分のギャラを約束して、出会ったミュージシャンの中から13人をレコーディングに呼んだ。彼らはバイオリンとアコーディオンを携えてウイーンにある録音スタジオに出向いた。彼らの演奏は12月16日全米公開の『シャーロック・ホームズ』の続編"A Game of Shadow"*の映画音楽として収録された。サウンドトラックの収益の一部はロマの人々に寄付され水、暖房、学校へ行くためのバス代など生活費の一部に充てられることになっている。
ジマーの娘でファッション写真家のゾーイ・ジマーも旅に同行し、ロマの人々をカメラに収めた。"Deserve Dignity"(「誇りをもって生きる人々」筆者試訳)と題する写真展がこの1月からウエスト・ハリウッド図書館で開催される。
「私は政治家ではないので問題を解決することはできない。」と父ジマーは言う。「とても音楽的なジプシーの世界といういい意味でのステレオタイプを後押ししているわけですが、それが今の私にできる唯一のことです。少しでも彼らに仕事の場を提供すること、それによって彼らの生活が少しでも良くなることを願っています。」
(市橋雄二/2012.1.9)
*日本では『シャーロック・ホームズ シャドウゲーム』の邦題で、今年の3月12日全国ロードショー公開(配給:ワーナーブラザーズ映画)の予定。出演はロバート・ダウニー・Jr.、ジュード・ロウほか。12月16日に公開されたアメリカでは1月1日までの累計興行収入が100億円に達し、1位のトム・クルーズ主演『ミッション・インポッシブル ゴースト・プロトコル』と僅差で2位につけ、大ヒットとなっている。
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"Lost Music of Rajasthan"と題する65分のドキュメンタリー番組が、この12月6日にイギリスのBBC ONE(日本のNHK総合テレビに相当する)というチャンネルで放映された。この番組では、撮影隊がラージャスターンの沙漠地帯を旅しながら、インド独立以降その存続が危機に瀕している楽師たちを探訪する。
ボーパと呼ばれる絵解き芸人が大きな布に描かれた絵巻を前に三日三晩物語を吟じる。そこにはサフラン色の衣装を身にまとい水キセルを吸う姉妹や女装の男たちが集まり、カルベリア・ジプシーの踊り子たちが後ろ向きに反り返ってルピー紙幣を口で銜える曲芸を見せたりしている。
 生きていながらにして既に伝説化したバンワリー・デーヴィーがラージャスターンの田舎の村の実家でクリシュナ神への賛歌を歌っている。彼女の巧みな歌声がガラスのない窓と素朴なつくりの家の戸口から漏れ聞こえる。彼女はそこで7人の自分の子供を含む22人の扶養家族と暮らしている。9歳か10歳のころに結婚し、今は未亡人となっている。12歳のときに長男を出産した。この長男が弟とともにハルモニヤム(手こぎオルガン)と太鼓で伴奏をしている。音楽はあたりの畑や沙漠に響き渡る。歌いながら思い余って涙するデーヴィーを、伝統音楽を支援する基金(JVF)のディヴャ・バティアが慰めている...。
 残念ながら番組自体を観ることはできないが、BBCのホームページにアップされたスチール写真とそこに添えられた上記の紹介文からおおよその内容を知ることができる。撮影地については詳しく書かれていないが、ジョードプルとジャイサルメールの周辺部ではないかと思われる。上記のJVFという団体は、調べてみるとラージャスターン州の州都ジャイプルにあるJaipur Virasat Foundation(ジャイプル文化遺産基金)であることがわかった。
 この番組で紹介される楽師たちはかつて各地の藩王や貴族たちがパトロンとなり、代々芸能を生業としてきたのだが、第二次大戦後の共和国政府成立と共にそうした制度が解体され、その存続が危ぶまれるようになった。このことを指して「消え行く」音楽と題していると思われるが、実際に現地を訪ねてみると観光客をパトロンにしぶとく生き延びている楽師たちの姿を見ることができる。(この模様は本HPのビデオアーカイブギャラリーに収められている。)そのエキゾティックな音楽や踊りを携えて欧米諸国や日本に公演に行き稼ぐものもいる。また、今回の番組で取り上げられているような支援団体による援助もあるだろう。この番組がそうした彼らの今と未来をどう描いているか、チャンスがあれば是非観てみたいものだ。(市橋雄二/2011.12.11)
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ピッツバーグ大学の音楽学部ロシア東欧研究センターと海外研修課は、来夏<チェコ、ポーランド、スロヴァキアにおけるロマの音楽、文化、人権>というテーマで海外研修プログラムを実施すると発表した。民族音楽を専攻する学部学生が対象で、3単位が与えられる。
この海外研修は、ピッツバーグ大学の音楽学準教授アドリアーナ・ヘルビク博士とプラハのチャールズ大学人文学部の民族音楽学講座主任をつとめる準教授ズザーナ・ユルコーヴァ博士によって企画運営される。
ロマの音楽と文化に特化したプログラムは、この種の海外研修としては初めてである。学生はロマのミュージシャンや活動家、住民との交流、調査、インタビューなどを実地におこなう。プラハでおこなわれる<カモロ世界ロマフェスティバル>に参加するほか、スロヴァキアのロマ居住地を訪ね日常生活の中のロマ文化に触れる。ポーランドではクラクフ周辺地域でロマのホロコースト(大虐殺)の歴史を学ぶ。学生はまた、チェコ、スロヴァキア、ポーランドの研究者や一般の人々との交流を通じて、欧州連合(EU)やその周辺で起こっているロマ問題の理解を深めることも求められる。
ロマ(ジプシー)の音楽はここ20年の間にワールドミュージック分野の人気ジャンルの一つとして認知されるようになった。その背景には活動する政治団体が増え、ロマ差別への国際的な非難も高まったこと、また教育機会の増大やメディアの好意的な紹介などによってロマの少数民族としての地位向上の動きが強化されてきたことが密接に関連している。ヨーロッパで最も差別される少数民族にとっては社会経済状態の改善にまだまだ多くの余地が残されていることは言うまでもない。しかし、生来の音楽家である<ジプシー>という古くからのステレオタイプを作り出してきた音楽は同時にロマの権利保障を引き出すのに重要な役割を果たすものでもある。
研修は2012年5月19日から6月5日までの期間おこなわれる。参加費用は、ペンシルバニア州内からの参加者が$3,850、州外からの参加者の場合$4,804で、航空券代、教材代は含まれない。別途手続き費用$300がかかる。学生は奨学金を申請することができる。
以上がピッツバーグ大学が発表している研修の概要であるが、決して安くはない研修費を出して参加する学生がどのくらいいるのだろうか。見当もつかないが、これまでにない新しい試みであろうから、長い目で見る必要もあるだろう。経済格差や失業への不満を爆発させたニューヨーク市民によるデモの報道では、内向きになってしまった大国アメリカの姿ばかりが強調されるが、この国には今回の記事のようにマイノリティーの文化を認めて地道な交流を試みるグローバルな市民感覚が地下水脈のごとく流れていることも忘れてはならない。
(市橋雄二/2011.11.5)
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ブルガリア北東部の黒海に面した小さな観光都市カヴァルナは、2006年から毎年夏に開かれているロック・フェスティバルのおかげでその名が世界に知られるようになったが、カヴァルナのロマ系住民こそこの地の名誉とすべきだろう。
ブルガリアのロマ居住地の多くは掘建て小屋が未舗装の土の街路に沿って並ぶスラム街のようなところで、道路と呼ぶべきものがあったとしてもそこはゴミが散らかっている。対照的にカヴァルナのロマ居住区はきれいな街並みで、地元の人々がビバリー・ヒルズと呼ぶほどである。道路は舗装され、ゴミもほとんどなく、夜には街灯がともる。塗装したての家が至るところに顔を出し、その様はマッシュルームのようだ。
ロマが12,000人の住民の三分の一を占めるこの町は、地方自治体が少数派住民の統合とそのための予算措置に取り組めば何ができるかのよい実例を示している。「おそらくここはロマ系住民の統合が実現した国内唯一の場所です。」ブルガリア科学アカデミーの研究者でロマ問題の専門家であるイオナ・トモーヴァは言う。カヴァルナのロマ健康相談員カリンカ・アタナソーヴァは、ほんの10年前に市役所の前のコーヒー・ショップで入店を断られたことを思い出しながら「いつもこうだったわけではありません。当時は町の中の多くのコーヒー・ショップやクラブがロマの客お断りだったのです。」
しかし、事態は変わり、今やロマはどこにでも行けるばかりでなく、地方公務員として働くこともできる。そして17人いる市議会議員のうち4人を少数民族出身者が占めるまでになった。改革はツォンコ・ツォネフ氏が市長に就任した2003年に始まった。
最初の任期中に少数民族統合局という部局を新設し、スタッフの中にロマを採用した。それ以来、ロマ居住区は徹底した改修を経ることとなった。統合局長マーティン・バシェフは言う。「私たちは、政治的な意志があればロマ統合の問題が10年で解決できることを実証しました。」
ブルガリアのロマ居住地では多くの家屋が許可なしに建てられていたので、土地や建物を合法化することが生活改善の第一ステップだった。市の職員は、農業で生計を立てることを希望するロマ住民には、耕作可能な土地を相場よりも安い値段で購入できるよう斡旋した。市は居住区のインフラ整備に約10億円を投資したが、そのうちの半分は欧州連合(EU)が拠出するプロジェクトによって賄われている。新しい道路と下水道が整備されるとともに既存の学校と幼稚園は改修され、新たに居住地全体に行き渡る都市ガス網が敷設された。
依然として全国的な重要課題であるロマの子供たちの中退問題も、カヴァルナではその率が2004年から2007年の間に30パーセントも低下した。町のロマ生徒のおよそ90パーセントが少なくとも8年の教育期間を満了するまでになったが、以前は多くの女子生徒が中途退学していた。カヴァルナのロマの子供の95パーセントが小学校に入学する。また、かつては居住区でよく見られたひったくりなどの小犯罪がほぼ無くなったという。玄関の施錠をしない家もあるほどだ。
カヴァルナの改革は地方政府の努力のみならず町に住むロマとのパートナーシップの結果でもある。ロマの多くは数年間ポーランドへ出稼ぎに行き、そこで稼いだ自己資金を居住区の改善に投入してきた。こうした投資がどのようなものかは<ホワイトハウス>地区に行くとよくわかる。これまでロマ居住区の外れの泥沼だったところに突如現れた白塗りの豪邸群を地元の人々がいつしかこう呼ぶようになったエリアである。
カヴァルナのロマの間では、社会生活に対する姿勢も変わってきている。つい最近まで居住区の女児の多くが学校に通わず、14歳までに結婚していた。現在では結婚年齢は16、17歳となり、多くの女児が少なくとも8年間学校で学ぶようになった。副市長のセヴィンチ・カサボーヴァ氏は、カヴァルナの統合の成功を簡潔にこう表現する。「生活水準の向上に努めるロマのコミュニティがある以上、市当局はそれに応える責任があります。」
今回の記事に触れて、数年前に訪れたマケドニアのロマ居住区シュト・オリザリを思い出さずにはいられない。ドイツや遠くオーストラリアへ出稼ぎに行き、貯めたお金で豪邸を立て、高級車に乗るロマの人々の姿がそこにあった。もちろん一方で貧困から抜け出せない人々もいるのだが、ロマの共同体はそれらすべてを飲み込みダイナミックに自らの生活を謳歌しているように見える。
(市橋雄二/2011.9.25)  
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    低開発や貧困の特効薬と言えばやはり<観光>だろうか。専門家によれば、普通の観光よりも農業体験や文化遺産巡り、究極の体験ツアーの方がその地域に経済的利益をもたらし、草の根レベルの小規模なビジネスの方が観光客やジャーナリスト、ひいてはナショナル・ジオグラフィック・チャンネル(ドキュメンタリーの専門チャンネル)を惹きつけるという。実際、19世紀のスイス以来20世紀中頃のギリシア、そして20世紀後半のチェコに至るまで、観光はヨーロッパの多くの地域で生活水準の向上に重要な役割を果たしてきた。
    同じことはヨーロッパで最も恵まれない農村地域にも起こりうるだろうか。あるハンガリーの村がこれを試みようしている。ボードヴァレンケ村の住民はその大半がロマで、ハンガリー北東部スロヴァキア国境の村に観光客を呼び込むために情熱的で繊細なジプシーの芸術を利用している。村の家々の壁をフラスコ画(*1)で飾る試みは2009年から始まり、美しい景観を作り出している。
    セルビアのゾラン・タイロヴィッチら著名なロマのアーティストが絵を描くために招かれた。フラスコ画がボードヴァレンケ村の住民の手によるものではないことはさして問題ではない。この7月31日に開催されたF1ハンガリー・グランプリを記念してか、フレスコ画の一つに疾走するF1カーが付け加えられている。この模様はyoutube(*2)で見られる。描き方がやや雑な感じがするが、おそらくこれによって新たに村を訪れる客もいるだろう。
    ボードヴァレンケを芸術の村にしようというアイデアは数年前に活動家エステル・パーストルがハンガリアン・ガード(ハンガリー人のための極右団体)のデモ行進に触発されて提言したと言われている。
    ボードヴァレンケ村のプロジェクトは、貧しい農村地帯を経済の主流に組み入れようとする新たな試みだ。近くにあるアグテレクの洞窟群も村に観光客を呼び寄せるのに役立つだろう。フレスコ画には、白いドレスの花嫁や馬、天使やロマの伝説から取ったものなど独特の題材が含まれるが、こうしたほかでは見られない珍しいものこそが観光収入につながるに違いない。
    *1) フラスコ画(*1)
    *2) youtube(*2)
    (市橋雄二/2011.8.20)
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     六つのロマの部族がダラスに集まっておこなわれた祭礼時の騒動の様子が、1951年にすでにダラス・モーニング・ニュース紙に報じられている。グリーン一族に属する15歳の少年がエバンス一族のメンバーによって銃撃されたとする事件がもとでグループ間抗争に発展するのではないかとの記事だ。
    東欧の共産主義国家の崩壊以来多発する民族ナショナリズムや人種問題にからむ暴力事件のせいで、多くのロマがアメリカに移り住んできたが、依然としてネイティブ・アメリカンと並んで差別の多い民族集団である。
    「役所での手続きを見ればわかりますよ。不条理な書類上の人種差別です。」カリフォルニアに拠点を置く非営利団体<ヴォイス・オブ・ロマ>の代表であるサニ・リファティ氏は言う。この団体は、ロマの文化芸術や伝統を広く世界に広め、ロマとしてのアイデンティティと文化の保護と啓蒙に寄与すべく設立された。「自由民主主義者は寛容を説きますが、それは言葉の上のことに過ぎません。ヨーロッパでは人種差別が公然と語られています。」
    ハンコック氏によれば、ロマと他のアメリカ人がお互いに交わらない原因は両方にあるという。ロマは生活のためにはガジェ(ロマでない人)と関わろうとするが、ロマでない人との接触がロマ社会の伝統的な価値観である<穢れ>にあたることを恐れて自身を社会の周辺に置こうとする。今もおこなわれている文化的伝統はほかにも、ヴラフの人々によってフォートワースやヒューストンで年に数回開かれている<クリス>と呼ばれるロマ社会独自の裁判システムがある。
    リファティ氏は言う。「ロマがロマでない人々と距離を置こうとするのにはそれなりの理由があります。つまり、一種の自己防衛なのです。世界中のロマ以外の社会では、ロマに対して好意的ではありません。アーミッシュのように近代的価値観によらずに暮らす人々もいますが、これも他の集団から自己を守る手段の一形態でしょう。正統派ユダヤ教徒にも同じことが言えます。」
    一方でハンコック氏は、自分たちの生活様式やアイデンティティが多数派の人々に受け入れられるようロマ系アメリカ人の側も努力することが重要だという。さもなければやがて民族性を失い、独自文化も長続きしないだろうと心配する。
     アメリカ国内に住むロマは<the hidden Americans/まぎれて暮らすアメリカ人>とも呼ばれる。他の民族集団と見分けのつきにくい存在であるためだ。黒髪に浅黒い肌はよくヒスパニックや南ヨーロッパ系あるいはアメリカ・インディアンと間違われる。
     周辺部に暮らすことを好む多くのロマ系アメリカ人の生活様式と民族差別が、「ハリウッド映画が描く<ジプシー>のステレオタイプにとらわれて実際のロマを理解しないことによって」(ハンコック氏)ますます助長される。同様の意見を持つヴォイス・オブ・ロマもキャラバン、精霊、王、女王といったおとぎ話的なイメージの払拭に努めている。
     コソヴォ出身のサニ・リファティ氏は1993年にアメリカに来て気付いたという。この国は個人の上に成り立っていてコミュニティの関与が薄い、と。「本当はアメリカ人はロマについて無知なだけなのです。」  「アメリカでは誰でもジプシーの専門家になれますよ。」と氏は続ける。「私の代わりに発言することは自由ですが、最初は私にやらせてください。ダンスをする前に対話をしましょう。それがアメリカでもう一つやらなければならないことです。ジプシーの芸術が単にサーカスとしてではなく正しく認められるように闘っていきます。」
     ロマを避けようとする風潮は教育の世界にまで及んでいる。テキサスを含むアメリカ各地のロマの一部は子供たちが思春期に達すると学校から引き上げてしまう。アメリカ系ロマの若い世代の多くはロマ語ではなく英語を話す。テキサスやカリフォルニアなどの州ではスペイン語を話す者もいる。
     「偏見があるために、ロマは既存の教育制度になじまないのです。」とリファティ氏は言う。「アメリカのネイティブ・アメリカンの状況とよく似ています。」若年の、教育を受けていないロマ系アメリカ人は外側の世界との関係をもたず自殺率が高い。
    「私はかつて教室にジプシーを受け入れることを嫌がったセルビアの支配層と闘わなければなりませんでした。」とリファティと振り返る。「私自身良い成績を取るために他のセルビア人の生徒より5倍も努力をする必要がありました。」
     ロマ出身の活動家、世界的なスポークスマン、そして学者としての顔を持つイアン・ハンコック氏は世界中の1500万人のロマを代表する国連とUNICEFの大使でもある。ロンドンの伝統的なロマの家庭に育ち、差別を受けたこともある。疎外感を味わったことも、同じコミュニティのおきてに苦しめられたこともあるが、当時のハロルド・ウィルソン首相による差別撤廃措置により、ロンドン大学の博士課程で勉強する機会を得ることができた。ハンコック氏は、テキサス大学オースティン校に初めてロマ研究講座を開設した。同校はのちにロマの歴史、言語、文化の研究におけるアメリカにおける拠点となった。ハンコック氏はさらに<ロマ・アーカイブおよび記録センター(RADOC)>を設立。今や世界のロマに関する資料の最大のコレクションを誇り、1万を超える書籍、論文、印刷物、写真、書類を所蔵する。
    ヨーロッパのロマは学歴がないと思われているが、サニ・リファティ氏は教育上の優遇措置が認められていた旧ユーゴスラビア時代に育ち、化学の修士号を持つ。しかし、仕事を見つけることはやはり難しい。リファティ氏はアメリカに移ってきたとき、自分自身の文化についてまるで無知だった。しかし、ハンコック氏との出会いによって自分の文化を今まで以上に理解するようになっただけでなく愛着を感じるまでになった。ヴォイス・オブ・ロマは2011年を旧ユーゴスラビアからのロマ難民の保護のための基金を集めるためのフェスティバル開催の年と決めている。リファティ氏は言う。「フランス、ドイツ、イタリアの国外追放政策に反対するため意見表明も出したところです。われわれはロマの文化を保護する以外にも多くの活動に取り組んでいるのです。」(市橋雄二/2011.7.17)
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    テキサス州フォートワース市街の東、州道180号線沿いに位置するシャノン・ローズ・ヒル墓地は、この地の冬に特有の乾いた黄色い草地に区画された墓石群が広がるどこにでもある墓地だ。墓の多くはありふれた形をしているが、その中にひときわ目立つ背の高い墓石があり、そこには故人の写真が嵌め込まれている。
    一張羅に身を包み、たばこをくわえて笑みを浮かべ、両側に家族が写っている。燭台の代わりに真紅に染まったポインセチアの鉢とコーラやドクターペッパーの缶が供えられている。これらの贅沢な墓石にはエヴァンスの名が刻まれている。100年以上も前からここフォートワースを住処としてきたロマの一族である。
    なだらかな丘を登るとシャノン・ローズ・ヒル葬儀場の近くで、また新たなエヴァンス家の墓が建てられているところだった。一家(血統や婚姻により結ばれた20~200人の構成員からなる社会共同体。ファミリアと呼ばれる)のメンバーが別の墓の石のベンチで休んでいる。二人の老人と若い女性が一人。そして中年男性が一人。名前はトム・エヴァンス。休暇中のビジネスマンのように見える。炭酸飲料の缶をすすりながら、亡くなった親族の弔い話をしている。故人がそれを聞き入っているのだという。お互いに話を続け、英語にロマ語が混ざる。ロマ語はアメリカで今も生き続ける移民言語のひとつだ。テキサス大学の言語学教授でロマの活動家でもあるイアン・ハンコック氏によれば、何世代にもわたって瀕死の危機に晒されることなく伝えられてきたという。
    フォートワースにロマは何人住んでいるかと尋ねると、女性のお年寄りがスカーフから顔を出してきっぱりと答えた。「わたしたちはジプシーよ。」そしてコーラをすすった。「ヨーロッパにいるジプシーと同じ仲間さ。何も違いやしない。」と男性の老人が締めくくった。また別の親族がアウトドア車に乗ってやってきて墓地の真ん中でピクニックの道具を下ろし始めると、「これは家族の習慣なんだ。」とトムが説明する。男はポテトチップスの袋、サンドイッチの材料、デザートそして炭酸飲料を取り出した。トムによれば休日にはよく死者の傍らでソフトドリンクを飲んで、空き缶を残していくのだという。
    もう何十年もエヴァンス一族はダラスの新聞に取り上げられている。地元の病院で1954年、75才になるローズィー・エバンスが負傷したこと、また1970年には別の親族が癌の手術を受けたことなど何人もの報告が残されている。エヴァンス一族は読み書きができて仲間内のリーダー的存在だった。1976年ロマの子供の教育に熱心だったサム・エヴァンス<大尉>がダラス・モーニング・ニュース紙に語っている。「アメリカの人々はとても正当にわたしたちを取り扱ってくれる。(中略)アメリカ人でいられる限りアメリカ人でいるさ。」
    テキサス・ロマ
     墓地からそう遠くないところにホワイト・セトゥルメントの住宅街がある。やたらとガソリンスタンドが多く雑貨屋と住宅が並ぶ平凡な街並みのこのあたりは、高速道路の高架の向こう側の大型ショッピングモールを中心に開発が進むエリアとは無縁のようにみえる。トレーラーハウス(キャンピングカー)の駐車場もこのあたりでよく見かける光景だ。その多くはロマの家庭が所有する。ホワイト・セトゥルメントはアイルランド系トラベラーの一群であるグリーンホーンが集まって住む場所でもある。移動生活をする一族でロマと似て家の修理や雑多な仕事で国中を回っている人々である。
    フォートワースはヒューストンと並んでテキサス州でロマ人口の多い地域で、アメリカ全土で100万人と言われるロマ系アメリカ人のうちのおよそ2万人が暮らす。その多くはロマニチャルとヴラフと呼ばれるグループだ。ヴラフは正教会派のキリスト教徒でクリスマスとイースターを両方祝うのに対して、ロマニチャルはたいていプロテスタントである。両グループとも改宗してキリスト教徒になったロマがほとんどだ。この新しい信仰は占いやお見合い結婚などロマの文化習慣に合わないと考える人々もいる。アメリカにはほかにも様々なグループのロマが暮らしているが、ハンコック氏は方言の違いが集団間の交流を妨げていると語っている。
    (市橋雄二/2011.6.18)※次号につづく。
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    ドイツにもかつて都市の周辺部にバルカン諸国にみられる<マハラ>のようなジプシー居留地があった。これを記憶している人は今やほとんどいないが、ワイマール共和国(1919~33)時代の表現主義画家オットー・パンコックが版画と木炭画の技法で描いたデュッセルドルフ郊外のスィンティの野営地とそこに住む人々の絵が当時の様子を伝える貴重な記録となっている。
    パンコックというファミリーネームはドイツでは珍しい。同じようにドイツのスィンティを題材にしていたドイツ表現主義画家にオットー・ミュラーがいるが、ミュラーほど知られているわけではなく、オークションで同じ値段がつくこともないが、パンコックの名はヨーロッパに住むスィンティの間ではよく知られている。
    パンコックの兄弟の孫にあたるモーリッツ・パンコックは自身も画家で、十代の頃からこの大叔父の作品に関心を寄せてきた。最近ではロマとスィンティの現代絵画専門の新しいギャラリーをベルリンに開設すべく活動している。モーリッツは、ドイツで催されたパンコックの作品展でスィンティの老人が目に涙を浮かべて木炭で描かれた肖像画に見入っているのを目にしたことがある。それはアウシュヴィッツで死んだ親族の遺言ともいうべきものだった。ドイツ・スィンティの生活を描いたことで彼らの間では有名なオットー・パンコックの親類かと言ってドイツやその他の国のスィンティがモーリッツのもとを訪ねてくることも稀ではない。
    パンコックは1893年ミュルハイム・アン・デア・ルール(ルール地方デュッセルドルフ近郊の小都市)で生まれた。最初にスィンティやロマの文化に触れるようになったのは、束縛の多い現代生活が嫌になったからだった。1930年、南フランスのサント・マリー・ド・ラ・メールを訪れたとき、ヨーロッパ中からやってきたロマの巡礼に偶然出くわした。彼らは<黒いサラ>の聖像を礼拝するために来ていた。「ゴーギャンと同じように文明に嫌気が差し、ゴーギャンが南太平洋の人々の中に見つけたものをパンコックはロマの人々の中に見たのだろう。」とモーリッツは言う。
    ナチスが勢力を増し、ドイツがかたくなな保守主義のとりこになっていたころ、ロマとスィンティはパンコックの心を解き放つ存在だった。やがて彼はデュッセルドルフ郊外のスィンティの居留地<ハイネフェルト>に引き寄せられていった。この時期、第一次世界大戦後のヴェルサイユ体制下ルール地方が占領されたことによりハイネフェルトは事実上フランス領となり、ドイツの支配権は及ばずドイツの建築条例の対象にならなかった。このため、デュッセルドルフのスィンティは幌馬車を停留させて小屋を立てることができたのである。ハイネフェルトは無法状態で貧しいが自由にあふれた場所だった。モーリッツ・パンコックは言う。「居留地は小さな庭を備えた掘っ立て小屋の群れからできていました。にわとりともちろん馬もいました。デュッセルドルフの市街地とは大きな対照をなしていました。なにしろデュッセルドルフは整然とした豊かな都市でしたから。だからこそ彼はそこが気に入ったのです。そこには独自の文化を持ち、飾り気のない、ひとなつっこい人々がいたのです。」
    パンコックは住人たちの世話をするようになり、ハイネフェルトとスィンティの版画と木炭画を描き始めた。その地に溶け込み、言葉を覚え、絵を描かせてもらった子供には自分の絵かき道具を差し出した。スィンティの人が書いた彼自身の肖像画は感謝して受け取った。最後にはパンコックはハイネフェルトに住むスィンティの人々の顔を"Passion of Christ"と題する大きな一枚絵にまとめ、これが彼の最高傑作となった。
    「彼は今なら当然と思われることをしたまでです。」とモーリッツ・パンコックは言う。「彼は近代主義者ではありませんでしたが、彼がおこなったことは当時としては前衛的でした。境界を越えて貧しい地域に入り、そこの人々と触れ合ったのです。」
    1933年ナチスが政権に就きルール地方を奪還すると、ハイネフェルトに住むスィンティは徴集され捕虜収容所に放り込まれた。そしてそのうちの多くがのちに強制収容所へと送られた。パンコックは身を隠し、親戚が所有するデュッセルドルフの新聞社で仕事を始め、偽名を使って記事を書いた。1937年、パンコックはナチスから<退廃芸術家>とのレッテルを貼られ、作品は公共の場から取り払われて、燃やすか破棄された。パンコックはデュッセルドルフから逃げるしかなかった。そして、田舎の隠れ家で第二次世界大戦を生き延びた。
    モーリッツ・パンコックは現在ベルリンでヨーロッパのロマとスィンティの現代絵画ギャラリーの設立に携わっている。そして、近い将来ベルリンの展覧会で先祖の作品を飾るつもりだ。それはヨーロッパのスィンティの歴史にとって不可欠だとの思いからだ。「大叔父の絵はハインフェルトの人々の記録であり、ハインフェルトの人々を描いた唯一の現存する絵画なのです。展覧会をやると当時のスィンティの親類や生き残った人々が大叔父の絵のことを聞き付けてやってきてくれます。ワルシャワで展覧会を開いたときは私の名前のことを尋ねる人たちがいました。彼らはうれしそうに言うのです。あなたはパンコックという名のドイツ人画家の親類なのですか。そんな方がいらっしゃるとは思ってもみませんでしたと。」(市橋雄二/2011.5.8)
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    人権、民主主義、少数派の社会統合を推進するスウェーデンの政府機関The Living History Forumが、国内外の研究者や専門家を動員し、自国内のロマとスィンティの文化と言語の社会的認知をいかに高めるかについて提言をまとめるべく研究をおこなっている。最終報告は2011年11月に政府に提出されることになっている。
    スウェーデンの少数民族政策は、少数民族の保護、権利の拡充、言語の維持を目的としている。1999年の少数民族保護に関する国会決議とヨーロッパ地方言語・少数言語憲章により、ロマはスウェーデンの5つの少数民族のひとつとして認定されている。
    北欧におけるロマの歴史はあまり知られていないが、スウェーデンには16世紀以降ロマの人々が住むようになった。ストックホルム瞑想録には、オーライ・ペトリという名の聖職者により1512年ロマの一団が町を訪れたときの様子が描かれている。
    スウェーデンに到着した大勢のロマが何世紀にもわたってフィンランドへ強制移住させられた。フィンランドは当時スウェーデン王国の一部だった。スウェーデンでは、他国でもみられたことだが17世紀には世俗の権力と教会権力がロマの国外追放を定めた布告を何回も出している。
    18世紀、19世紀になると多くのロマとスィンティが軍隊に召集され、それ以外の者は強制労働や強制収容所に送られた。スウェーデンのロマ入国禁止令は1914年に施行され1954年まで続いた。
    世界大戦間には、ジプシー問題は人種差別的な論調の中で大きな議論の的となり、しばしば人種生物学の観点から取り上げられた。ロマとスィンティの共通言語であるロマ語はサンスクリット語と系統が同じで60の方言から成るが、この地域の主要な方言はヴラフ方言である。ヴラフ方言は14世紀から19世紀にかけてヴラフ、モルドヴァ地方に留まったロマの間で形成された。一方、非ヴラフ方言は15世紀かそれ以前にヨーロッパの他の地域への移動を開始したグループの間で形成された。
    16世紀以降今日にいたる移住の結果、スウェーデンには言語的、宗教的、文化的に背景の異なる様々なロマの集団が居住する。しかし、このように異なる集団でありながら、ロマは一つの民族集団あるいは国土を持たない(国境を越えた)一つの国であるという意識を持っている。
    ロマの人々は言語、同一起源の自覚、類似した価値観や伝統、文化、経験そしてロマ人としてのアイデンティティを共有している。このことによって迫害や同化政策に屈することなく自らの文化を維持することができた。ロマの間にはカトリック、プロテスタント、ギリシア正教、イスラム教ほかの信仰が見られる。
    スウェーデンのロマとスィンティには1960年代以降定住化が進められてきた。ほとんどのロマの集団がストックホルム、ゲーテボルグ、マルメなどの都市あるいはその郊外に住んでいる。ロマはスウェーデン社会の中では依然としてとても弱い立場にあり、法律で禁じられているにもかかわらず差別にさらされ続けている。多くのロマが事実上社会のすべての領域で大きな困難に直面している。すなわち教育、雇用、住宅、健康管理であり、多数派の国民と同じ条件でコミュニティに参画する機会である。
    (市橋雄二/2011.4.3)
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    EU(欧州連合)が、ロマの人々の社会参画を促し差別解消に向けた取り組みを行っていることは折に触れ取り上げてきたが、その活動の一環としてロマに関する知識を社会で共有する試みがなされている。
    +RESPECTというプロジェクトがネット上で公開している展示はその一例である。展示されている絵の中にはルノワールやピカソ、モディリニアーニら巨匠らの作品が含まれているが、ジプシーはヨーロッパ中世、近代の画家たちが好んで取り上げたテーマ(対象)だった。
    今回集められている23点の絵は書かれた年代も場所も異なるが、エキゾチシズム、エロチシズムそして写真がない時代の記録性といったものが創作のモチベーションであったことが窺える。また、人物とともに描かれた楽器や衣装、背景がロマの文化や当時の社会の様子をよく伝えている。
    以下のリンクから、洗練されたページデザインと音楽とともに絵を鑑賞することができる。再生時間は約4分。(再生画面右下のフルスクリーンボタンをクリックして大きな画面にしてご覧になることをお勧めします。)
    (リンク)http://www.morespect.eu/en2/2011/01/watch-the-respect-video-roma-people-in-the-history-of-painting-a-journey-across-cultures-and-style/
    (作品リスト)
    「ジプシーの少女」モザイク トルコ、ガジアンテップ出土
    (Gypsy girl mosaic/from Zeugma, Turkey)
    「ジプシーの少女」ルノワール、1879年
    (Gypsy girl/Pierre Auguste Renoir, 1879)
    「ジプシーの少女」(別名「夏」)ルノワール、1868年
    (The Gypsy girl aka Summer/Pierre Auguste Renoir, 1868)
    「ジプシーの女」フランス・ハルス、1628年
    (Zigeuner/Frans Hals, 1628)
    「ジプシーの聖母」ティツィアーノ・ヴェチェッリオ、1510年
    (Madonna degli zingari/Tiziano Vecellio, 1510)
    「ジプシーのキャンプ」アントニオ・コラッツァ、1961年
    (Accampmento di Zingari/Antonio Corazza, 1961)
    「ジプシーの少女」ジョージ・エルガー・ヒックス(イギリス)、1850年
    (A Gypsy girl/George Elger Hicks, 1850)
    「ジプシーの群れ」ヤン・ブリューゲル(父)、1602年
    (Gathering of Gypsies/Jan Brueghel the Elder, 1602)
    「スペインのロマ人」イェグラフ・セメノヴィッチ・ソローキン、1853年
    (Spanish roman people/Yevgraf Semenovic Sorokin, 1853)
    「ジプシー」アンダース・ゾーン(スウェーデン)、1918年
    (Zigeuner/Anders Zorn, 1918)
    「ジプシーの少女」ボッカチオ・ボッカチーノ、1516年
    (Giovane Zingara/Boccaccio Boccaccino, 1516)
    「バスクの太鼓を持つジプシーの少女」ウィリアム・アドルフ・ブグロー、1867年
    (Gypsy Girl with a Basque Drum/William Adolphe Bouguereau, 1867)
    「マンドリンを持つジプシーの少女」ジャン・バプティスト・カミーユ・コロー、1874年
    (Gypsy Girl with a Mandolim/Jean Baptiste Camille Corot, 1874)
    「セビリアのジプシー姉妹」ジョン・フィリップ、1854年
    (Gypsy Sisters of Seville/John Phillip, 1854)
    「ジプシーの少女」ウィリアム・A・ブレイクスピア、1903年
    (The Gypsy girl/William A. Breakspeare, 1903)
    「タバコを吸うジプシー」エドゥアール・マネ、1862年
    (Gypsy with Cigarette/Edouard Manet, 1862)
    「ミュスカのジプシー」パブロ・ピカソ、1900年
    (Gipsy on Musca/Pablo Picaso, 1900)
    「子供を抱くジプシー娘」アメデオ・モディリアーニ、1919年
    (Donna zingara con bambino/Amedeo Modigliani, 1919)
    「ベルン郊外に到着したジプシー」ディーボルト・シリング(従兄)、1485年
    (Arrival of Gypsies outside the city of Bern/Diebold Schilling der Altere, 1485)
    「懇願するジプシーのスペイン追放」エドウィン・ロングスデン・ロング、1872年
    (Expulsion from Spain Gypsy supplicants/Edwin Longsden Long, 1872)
    「ジプシーの占い師」ジョン・スミス、1732年
    (The Gypsy Fortune Teller/John Smith, 1732)
    「ジプシー」トーマス・クチュール、1867年
    (Gypsy/Thomas Couture, 1867)
    「キャラバン隊、アルル近郊のジプシーキャンプ」ゴッホ、1888年
    (Caravans, Gypsy Camp near Arles/Vincent Van Gogh, 1888)
    (市橋雄二 2011.2.12)
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      イスタンブールのタルラバシュ地区では、ロマ人、クルド人、トルコ人、ラズ人(トルコ東部の黒海沿岸、グルジアとの国境をまたぐ地域に住み、グルジア語と同系統の言語を話す少数民族で、イスラム教徒が多い。この記事にあるようにイスタンブールなど大都市に出て暮らすラズ人もいる:訳注)、そしてアフリカ人のコミュニティが隣り合って暮らしている。
    住民たちは市の中心部(イスタンブールの銀座とも言うべき繁華街イスティクラール通り:訳注)に隣接した地域に住んでいながら貧困状態におかれている。  この地区の豊かさはその民族文化の多様性にある。ここでは様々な文化背景をもった人々が共に暮らしているが、共通しているのは貧困の中にあってもたくましく生きようと前向きであることだ。
     2006年、イスタンブール・ビルギ大学の関連機関である移民センターが、タルラバシュ・コミュニティ・センターを開設した。センターは異なる民族文化を持った子供とその親たちを一体感のあるコミュニティにまとめていくという難しい課題に取り組んでいる。タルラバシュ子供オーケストラはそうした活動の成功例である。
     オーケストラのメンバーの一人、ラマザン・ギュミュシュ(16才)は、このオーケストラのおかげで生活が一変したという。「僕たちが演奏すると、人々が興味をもって見てくれる。そして演奏に訪れた大学で見た光景が僕を変えたんだ。そこにいた学生たちのように僕も勉強したいと思うようになったんだ。」
     ギターとダルブカ(砂時計型の片面太鼓:訳注)を演奏するのが好きなエレン・クシュ(9才)は週のうち三日はセンターで過ごすという。「学校が終わるとすぐにここへ来るんだ。ギターが大好き。将来はギタリストになりたい。」
     8才のヘリン・スコルクートは家に帰って着替える時間を惜しんでセンターに急ぐ。オーケストラの最年少メンバーは6ヶ月前にセンターに通い始めたばかりだ。
     センターの活動は貧しい子供や女性のほか、地域に移ってきたばかりで社会に溶け込めない人々を対象にしている。センターの社会福祉専門家セレン・スンテキンは、それまでお互いに敬遠し合っていた子供たちが今では一緒にバイオリンやギターのレッスンを受けていると話す。スンテキンさんは、<タルラバシュのギターの響き>と名付けられた子供オーケストラ・プロジェクトに参加している子供たちへの好ましい効果を強調した。この活動はイスタンブール2010ヨーロッパ文化基金によってサポートされている。また、ストリートは子供が安全に時間を過ごせる所ではないことから家庭の協力も欠かせない。当初市の役人たちはわれわれのことを批判し、多くの人々が同じ目的でやってきたがうまくいった試しがないと言った。それがのちに警察官さえもがこのように言うようになったという。「もし彼らがあなたがたのことを好きでないとしたら、とっくに建物や窓に石を投げていますよ。」スンテキンさんはそう説明した。(2011年1月2日付、トルコの英字紙Today's Zamanの記事より)(市橋雄二 2011.1.4)
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    インドの元首相インディラ・ガンディーの生まれた11月19日に、コソボのロマ出身のジャーナリストで詩人としても評価の高いバイラム・ハリティ氏がインド国民会議総裁ソニア・ガンディーに宛てた公開書簡を発表した。
    ソニア・ガンディーは、インディラ・ガンディーの息子ラジーブ・ガンディーの妻であり、夫の死後1997年政界入りした。イタリア人でイギリス留学時代にラジーブと知り合い結婚。数奇な運命をたどった人物として知られ、その美貌もあってか、今もインドでの人気は高い。なお、名前が同じなので混乱しがちだが、インディラ・ガンディーはインド独立の父マハトマ・ガンディーとは血縁はなく、インドの初代首相ジャワハルラール・ネルーの娘である。
    『ロマ報道情報局の代表として、哀悼の意とともに今は亡きインディラ・ガンディー女史の誕生日のお祝いを申し上げます。私には、ヨーロッパにいる1200万人とも1500万人とも言われるロマ・コミュニティー出身のロマとして、インドの元首相インディラ・ガンディー女史の誕生日を祝う理由があります。そしてこの機にあなた様に是非思い出していただきたいことがあります。女史は1978年にチャンディガルで開催された第一回ロマ・フェスティバルでこうおっしゃいました。
    「 あなたがたを母国にお迎えすることができたことを、そしてあなたがたが世界でもっとも偉大なインドのディアスポラ(離散民)であることをうれしく思います。」
    1983年に開かれた二回目のロマ・フェスティバルでも、女史はロマを言語的、歴史的、文化的、民族的に見てインドの少数民族であることを正式に認定する用意がある、と述べたのです。しかしながら、女史の死によってインド離散民に対するこの重大な責務の実現は不可能になってしまいました。さらに不運にもあなたの夫であるラジーブ・ガンディー氏の死によって、ロマ民族がヨーロッパや世界各地に離散したインドのディアスポラであるとして認定される機会を逸してしまいました。
    是非ともお知らせしたいことは、インディラとラジーブの亡き後、ロマ・コミュニティーが世界に離散したインド人であると認定する事案を取り上げる政治家がいないということです。
    インディラ・ガンディーは今も多くのロマの心の中に生き続けています。この先もずっとそうです。女史に栄光あれ。 バイラム・ハリティ』
      ロマのインド起源については、特にヨーロッパにおいて、地元での排斥を恐れて声高に主張するロマは少ないという説もあるが、このような記事からはインドとの絆を胸に抱いているロマが多いことがうかがえる。(市橋雄二 2010.11.27)
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    トニー・ガトリフは使命感の人である。アルジェリア人とジプシーの混血に生まれたガトリフは、ヨーロッパにおけるロマに関する映画を35年にわたって監督、制作してきた。ガトリフ氏曰く、ロマの人々は誤解されることが多く、差別の対象となっている。今年公開されたガトリフの最新作「自由(Liberte)*」は第二次世界大戦中に抑留、退去を強いられたおよそ3万人のフランスのロマ(ジプシー)を描いている。ガトリフはサルコジ大統領による追放政策とロマの不法キャンプ解体に怒りをあらわにするが、ただし今日起こっていることは第二次大戦時の国外追放と同じではないと言う。しかし、ロマ民族全体が対象とされれば、そうは言えなくなると警告する。ユーロニュースのヴァレリー・ザブリスキー記者がリヨン(フランス)で監督に話を聞いた。(euronews 2010.10.14付)
    サブリスキー:ガトリフさん、あなたはロマ・キャンプの解体に強く反対されていますが、世論調査によるとフランス国民の60%がこの<解体>政策を支持しています。このことは驚きですか。
    ガトリフ:それについては私にはなす術がありません。私にできる唯一のことは、移動生活者(travelling people)に関するこの問題について理解していない人たちに説明をすることです。移動生活者とは行政上の用語で、ロマの人々、つまりジプシーのことですが、とても長い間、フランソワ1世(在位1515-1547年)の頃からフランスに住む人々で、現在フランスの南部とスペインにいます。ただそれだけのことです。しかも、中世の時代からヨーロッパに住んできたこれらの人々はヨーロッパの文化やあらゆるヨーロッパ的なるものに貢献してきました。そして、今、私たちはこうした人々にいなくなって欲しいと言っているのです。しかし、一千万人の人々が突然存在をやめることなどできるでしょうか。ヨーロッパ各国の首脳が反ロマの法律を可決することを決めたために、ロマたちはもはや移動生活をすることができません。移動して欲しくないときには監禁するという意味です。これは戦時中におこなわれたことです。
    サブリスキー:しかし、ルーマニアもブルガリアも今や欧州連合(EU)の加盟国で、移動を規制することはできません。誰でも他のヨーロッパ各国へ移動する権利があるわけですが、しかし3ヶ月後に仕事に就かず社会の重荷といわれる状況になると追い出されてしまいます。
    ガトリフ:この法律は今おっしゃったような人々のために作られたのですが、すべての人が対象ということではありません。たとえば、パリの私の家のそばにドイツ人のホームレスがいます。そのホームレスは3年間もそこにいるのですが、この人物にドイツに帰らなければならないと注意した人は誰もいません。彼はホームレスです。ドイツ人だと私に言いました。つまり、この一連の法律はある特定の人々を対象に作られているのです。いわゆる「2級」市民と呼ばれるような人々です。そして、「本当の」市民に向けてはまた別の法律があるというわけです。私に言わせればこれらの法律はジプシーのためだけに作られたようなもので、法律を作った人たちはこう言いたのです。「気をつけろ。ヨーロッパの国境を開けば移動したがっているジプシーをすべて受け入れることになるぞ。」と。ジプシーの行動様式はわかっています。だから、3ヶ月後には彼らを締め出し、もといた場所へ送り返すと言っているのです。
    サブリスキー:しかし、先月のEUサミットでのサルコジ大統領と欧州委員会委員長とのやりとりなどを見ていますと、欧州委員会がいわゆるロマ問題に注意を払うようになってきたといえるとはお思いになりませんか。
    ガトリフ:欧州委員会はショックを受けたと思います。スペインもそんなことはやっていないし、他のEU各国もやっていない。ギリシアももちろんやっていない。ギリシアはむしろジプシーに好意的です。フランスが突然法律を整備して追放に乗り出したのです。どのくらいの期間かは知りませんが、多分3年か4年フランスに滞在しているロマの人々をです。そういう人たちを捕まえて、彼らの住む小屋から、板張りの家から、森から、橋の下から、高速道路の脇から追い払い、大勢まとめて運び出したのです。ショックなことに、母親の腕に抱かれた半裸の赤ん坊もいました。あちこちでパニックになりました。身の回りのものをまとめる時間すらないのです。もうパニックです。もちろん、第二次大戦中1940年の排斥、一斉検挙と同じとは言いませんが、のちに禍根を残すことは間違いありません。
    サブリスキー:美しく装飾された幌馬車で移動するジプシー、ロマの人たちがいる一方で、同時に被害者の役を演じ、女性が子供を連れて通りで物乞いをしているなどと言って不満をもらす人もいますが・・・。
    ガトリフ:リヨンの駅に着いたとき、私を呼び止めた女性がいました。その女性は青い目をしていて、外国人には見えませんでした。彼女はフランス人で、子供のためにと言って私にお金をねだりました。彼女は私の前でいかに困窮しているかをさらけ出しました。私は目を覆うことはしませんでした。しかし、ジプシーが物乞いをしたら、誰もが嫌な顔をするでしょう。どうしてそうなのでしょうか。身の危険を感じて不安になるからでしょうか。おそらく嫌な感じを受けるからでしょう。しかし、私はホームレスに対しても同じように嫌な感じを受けます。それは自然なことでしょう。何も言わずに目の前で死んでしまうかも知れないのです。しかし、これが今日新しい世界が直面している現実です。これが現代の世界なのです。
    サブリスキー:しかし、この夏の追放関連のマスコミ報道が、ガトリフさんはそんなに楽観的ではないかも知れませんが、ヨーロッパの各国の首脳たちにこのヨーロッパ特有の問題について何か発言をしなければならないというプレッシャーを与えたということにはなりませんか。
    ガトリフ:私はヨーロッパ各国の首脳のことは怖れていません。ヨーロッパを統治している人々のことも怖れていません。私が怖れているのはヨーロッパの普通の人々です。かつては人権の国としてヨーロッパのすべての国が尊敬していたフランスのような国が、弱い立場の人間をターゲットにし始めたのです。私が心配しているのは、これが連鎖反応の引き金になるのではないかということです。私は、他の国の人々が自分たちも同じことをやってもいいのだ、なぜならばロマはよくないからだ、と言いだすのではないかと心配です。それはまさにフランス政府が言っていることであり、フランスの大統領が言っていることです。いや実際大統領はよくない人々とは言いませんでした。問題がある人々という言い方をしました。そういう意味では、ルーマニアやブルガリア、ハンガリーといった国々でも、「確かにロマの人々との問題を抱えている」と言えるからです。
    サブリスキー:今月(2010年10月)、ブカレストでヨーロッパにおけるロマの人々の統合に関するサミットが開かれます。このような形のサミットからどのような成果を期待されますか。
    ガトリフ:問題は当事者を差し置いていることです。ロマの人々は何も要求しませんでした。彼らはこれまで戦争をしかけたこともなければ、武装したこともありません。爆弾を使ったこともありません。彼らはただただ生きたいだけなのです。だから、ただ生かしてあげればいいのです。そうするための援助方法を見つけようではありませんか。ヨーロッパのほかの人々に対してと同じように。そして、彼らの背中にレッテルを貼るのを止めることです。彼らの生き方に反するような法律を作ることを止めることです。(市橋雄二)
    *映画「自由」についてはジェレム・ジェレム便り(12)2010年7月12日付に詳しい紹介があります。
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    「(つづき)1983年のロマニ・フェスティバルとそれがチャンディーガルで開かれた背景には、インドの外交官W.R.リシ氏の尽力があった。パンジャブ地方の貧しいバラモンの家に生まれたリシ氏はロシア語を志望していたおかげで一地方公務員から1945年新たに設置された外務省での仕事に就くことができた。この機会を得て氏はソビエト陣営とのコネクションを広げ、そこでロマと出会い、彼らの言葉を耳にしたとき、その瞬間が訪れた。氏の興味はやがて情熱へと変化していった。氏はさまざまなロマ活動家と連絡をとったが、最初多くの活動家はロマではない外交官を信用しようとしなかった。しかし、氏の誠実さを知るにつれ、影響力のある窓口役として重んじるようになった。
    リシ氏はインドの外交的ロビー活動によってユーゴスラビア政府に対してロマを正式な少数民族としてみなすよう働きかけたり、チャンディーガルにインド・ロマニ学研究所(Indian Institute of Romany Studies)を設立し、<Roma>と題する定期刊行物を編集するなどした。(原注:研究所と刊行物がともに現存するかどうかは不明。リシ氏は2002年に亡くなり、息子が仕事を引き継ぐと思われていたが、ネット上に掲載されている研究所の電話番号は現在使用されていない)いずれかの機会にリシ氏はガンディー女史にロマについてレクチャーし、女史はその物語に心を奪われたに違いない。ロマを擁護することに政治的なメリットは何もないにもかかわらず、女史は1976年と1983年の2回のイベントに参加した。2回目のイベントの際に、タイムズ・オブ・インディア紙は、いささか言い古された言い方で、次のようなコメントを掲げている。「インディラはジプシーの気楽な生活スタイルに取り込まれたようだ。彼女の陽気で楽しげな物腰はいかにも周囲に影響を与えそうであった。」
    その後インドの政治家で女史のようにロマに関心を持つものはいない。その証拠に今のところインドは今回のフランス政府の政策に何の反応も示していない。おそらくロマ自身もインドとの関係を前面に押し出そうとは思っていないのだろう。イザベル・フォンセーカの本("Bury Me Standing"訳書『立ったまま埋めてくれ』青土社刊、1998)に1995年オーストリアで鉄パイプ爆弾によって殺害された4人のロマの生々しい写真が載っている。(前掲書p.297)爆弾は男たちが「ジプシーはインドへ帰れ」と書かれた看板を取り去ろうとしたときに爆発した。フォンセーカはこうコメントしている。「ロマたちはもう300年以上もオーストリアのその地方に住んできたのだ。」
    なぜロマは常にこのような敵意にさらされ続けているのか。定住者による放浪者への不信、すべての罪悪をよそ者に着せようとする変わらぬ人間心理、異質なものに対する恐れ(ロマに関する好意的な報告でさえ、常に彼らのエキゾチックな性質を強調しようとする)、あるいは単なる人種差別なのか。ロマの人々は多くの仕事に従事することを許されなかったために、生きるための最低限の手段へと追いやられたのであり、その結果盗みの誹りをうけることとなった。わたしたち(インド人)は、このような偏見の源を知るのに遠くを探す必要はない。なぜならば、インドのアウトカーストの部族の、なかでもかつてイギリス人から<犯罪部族>とレッテルを貼られた部族に対するわれわれの態度を見ればわかるからだ。ロマに関する最初のころの仮説の一つは、インドにおける偏見から逃れようとしたが結局それを拭い去ることができなかった部族ではないかというものだ。
    この説には一部のロマ研究者が疑問を呈しており、その屈辱的な起源を怒りとともに否定している。また一部の研究者は追放されたクシャトリヤ階級の戦士との関連を唱えているが、インド人はどこにいようともカーストの呪縛から逃れられないことを示している。そのような仮説はさておき、言語とともにそれ以外のインドとの明らかな関連が、伝統的なロマの生活を規定している浄不浄の観念に見られる。もっともはっきりと見て取れるのは食事についてである。たとえば、女性は生理中調理をしてはならず、ものに触れてもいけない。ロマの間にもいくつかの身分階層がある。このため、どこでも自分たちの道具で食事ができるように皆ナイフを持ち歩いている。
    フォンセーカは書いている。「伝統的なロマの習俗では、飲み物は器が唇に触れないようにして口の中に流し込む。(中略)アン・サザーランド(アメリカの文化人類学者)はイリノイのある食堂で何人かのロマ系アメリカ人と一緒に食事をしたときのことを述べているが、それによると、食堂のフォークやナイフを使う危険を冒すよりも手で食べる方を選んだということだ。」(前掲書p.145参照。上記訳文は本稿筆者によるもので前掲書の訳とは異なる)フォンセーカは、また、アルバニアでの体験として、ロマの協力者の一人は、フォンセーカがアルバニア人と一緒にいる家の中には決して入ろうとしなかったと語っている。そして、これは恐れとか偏見ではなく、彼自身の問題なのであった。つまり、アルバニア人は客人には食べ物をふるまうということをもてなしとしているが、彼は食べ物が不浄であるかどうかを知らずに食べるわけにはいかなったのだ。実際のロマの料理はその土地の食材を利用する。それはただ単に彼らの置かれた状況から手に入るものは何でも食べなければならないことによる。インドとの関連性は食材そのものよりも食事一般に対する態度において見られる。
    多くのインド人社会に色濃く残るそのような習慣があったために、放浪の間もロマは自分たちの文化を保つことができたのだ。それはまた彼らの他者性を規定し、地元の社会に統合されることを拒む理由にもなった。このことはロマが直面している偏見を正当化するものではないが、当局の怒りは理解することができる。ロマの女性は低い地位に置かれ、子供たちは教育を受けないままだ。予防接種を嫌がり、争いの解決のために独自の自治組織を持つなど強烈なインド性が見て取れる。
    現在のヨーロッパ政府がロマへの対応に苦慮している姿は、強固な部族習慣がインドの中央政府や州政府を悩ませている状況と類似している。しかし、インドにおいてそうであるように、ヨーロッパにおいても唯一の答えはあくまでも関与を続けることと教育であって、フランスが行っているような追放ではない。追放することは一見簡単な解決方法に見えるが、それはモラル破壊であり屈辱を与えるものであり、何よりも有効性に欠ける。ロマは必ずやそれを生き抜き、また変わらず戻ってくるであろう。彼らは何世紀にも渡って同じような迫害に耐え、同じような時代を生き抜いてきたのだから。(おわり)」(市橋雄二/カッコ内は筆者注)
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    発端はフランスのサルコジ大統領がこの(2010年)8月25日の閣議でロマの送還を継続する方針を表明し、今年に入ってすでに8,030人の「不法滞在者」をルーマニアとブルガリアに送還したことを明らかにしたことにある。欧州連合(EU)は即座に反応し、域内移動の自由を保障しているEU法に抵触する可能性を指摘するなど反発が広がっている。なお、ルーマニアとブルガリアは2007年1月にEUに加盟している。この動きにインド紙The Economic Timesが興味深い論評を掲載しているのでここに紹介してみたい。
    「インディラ・ガンディーならフランスのロマ追放政策に抗議を表明していただろう。抗議すべきは疑う余地はなく、すでにフランス内外から激しい非難の声があがっている。ロマを追放することによってフランス政府は域内を自由に移動できるEU加盟国民の権利を侵害し、特定のコミュニティに烙印を押すことにより基本的人権を脅かしていることになる。何世紀にもわたる反ロマ運動の際に用いられてきた犯罪行為や非定住を根拠とする理由づけがまた今回も繰り返されている。そうした動きが頂点に達したのがナチスによる死の収容所でのロマ撲滅の試みだった。ナチスとの比較は軽々にするべきではなく、もちろんフランスが同じであるというわけでない。言えることは、文明国家であるならばユダヤ人や同性愛者を追放することなど考えもしないだろうということだ。しかし、フランス政府はロマにはそれができると考えているのだ。
    現在のインド政府はロマに対する明確な方針を持っていないようだ。しかし、ガンディー女史はロマの支持者だった。「ロマの人々を親族だと感じている」、女史(当時インド首相)は1983年チャンディーガル(インド北部の都市)で行われた第2回国際ロマニ・フェスティバルでこう公言したのだ。それを消し去ろうとする人的作用や時間の経過に抗して、独自の文化を保ってきたロマの人々の生き方を賞賛した。「偏見を越えた、国際主義のなかのナショナリズムの好例」だと述べ、最後にロマニ語とヒンディー語の両方で演説を締めくくった。「アプレ・ロマ!」「ロマ・ズィンダーバード!」(ロマ万歳の意)さらに偏狭なナショナリズムによってこの演説のあとガンディー女史の命が奪われていなければ(1984年狂信的なシク教徒分離主義者により暗殺)、おそらく今頃インドは世界をリードして抗議を行っていたことだろう。
    ガンディー女史が関与する理由はもちろんロマのインド起源にある。インド起源についてはオリエンタリストの空想だとする人々もいる。確かにロマのラベルが余りにも容易に多くの移民集団に張られてきたことも事実である。しかし、ロマニ語のバリエーションを話すコミュニティとインドとの関連は驚くほどに明白だ。インドから西アジアを経てヨーロッパへと何世紀にも渡って移動を続けたにもかかわらず、言語の核となる部分には明確に西インド諸語との関連が保たれている。
    イザベル・フォンセーカによる、ロマに関する本の中で忘れてはならない『立ったまま埋めてくれ(原題Bury Me Standing)』に、あるロマ活動家が彼女に向かって「(せめて立ったままで俺を埋めてくれ。)生まれてこのかたずっとひざまずいてきたのだから」と叫ぶ部分があるが、彼が実際に言ったのはロマニ語で"Prohasar man opre pirende sa muru djiben semas opre chengende"とある。(『立ったまま埋めてくれ』青土社刊p.403参照。本文中、「これまでずっと」と訳されているが、「生まれてこのかたずっと」とした方が原文の意味に近い。)中ごろにある"sa muru djiben"(生まれてこのかた)という言い方は今日のグジャラートあるいはラージャスターンの言葉と対応する。
    ロマが旅したところではその土地の言葉を覚える必要があった。したがって、自然と彼らの言語の中の多くは変化を余儀なくされた。言語学者らは言葉の痕跡から何世紀もかけて彼らがたどった足取りを知ることができると主張する。つまりアラビア語が少々、それよりは多いペルシア語、そしてたくさんのアルメニア語起源の言葉が存在する。しかし、djiben、あるいは人を意味するマヌーシュのように身体や身近な物に関する語の多くはインド語である。羊はbokro、肉はmas、サーモン(サケ)はbauromatchi(大きな魚)、キャベツはshok(shaak)であり、飲むはpeeve、水はpaniである。蜂はpishomというが、これはインド語とは思えない。しかし、蜂蜜はpishomgudloといい、蜜の甘さとgudlo/gurはここでも対応する。
    こうした関連性の指摘は過去何度も繰り返されているが、おそらく最初に行ったのはIstvan Valiというハンガリー人で、1753年ライデン大学(オランダ)に留学中、三人のインド人と出会い、さまざまな単語をメモにとった。のちに実家に戻り、知り合いのロマがそれらを理解できることを発見した。フォンセーカは著書の中で、マケドニアに住むロマで1983年の国際会議にも参加したシャイプ・ユスフと出会ったときのことを書いている。(前掲書p.146-154参照)彼は、今でもガネーシャの宗教画とインディラ女史の写真を飾っている。ユスフがインドとの関連を知るようになったのは、第一次世界大戦にトルコ軍兵士として従軍したおじの話がきっかけだった。インドで捕虜となったとき、そこで看守たちが話す言葉がわかったというのだ。(次号につづく)」(市橋雄二/文中カッコ内は筆者注)

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     カナダ、モントリオールの英字紙<ガゼット>2010年5月7日付け。
    トニー・ガトリフ監督の最新作「自由(原題:Korkoro/仏語題:Liberte)」は野心作である。アルジェリア出身でフランスを拠点に活動するガトリフ監督は、仕事の大半を世界のジプシーたちの文化や歴史を描くことに捧げてきた。この意味で最も有名な作品は1993年の「ラッチョ・ドローム」である。最新作である本作では、彼らの歴史の最も暗い部分を描こうとしている。
     この美しくも感動的な作品の最後に流れるテロップで、ガトリフ監督は風化してしまいがちな悲劇を観客に突きつける。第二次世界大戦中ヨーロッパにいたおよそ二百万のジプシーのうち25万から50万人がナチスによって強制収容所で虐殺された、という事実である。この数字が物語る惨事こそが監督を奮い立たせた。暗澹たる状況を単に重苦しさだけではなく映画にすることはたやすいことではない。この作品が成功しているのは、ガトリフ監督が暗闇のなかに喜び、躍動感に満ちた物語を作り出そうとした点だ。そしてこれが映画の最後で、それでもへこたれないコミュニティへの賛辞となっている。
     ガトリフ監督が、フランスのヴィシー政権がゲシュタポのロマ、ジプシー一斉検挙に協力していた事実を正面から取り上げている点も見逃せない。ジプシーを積極的に助けようとするフランス人の男女二人が主役だが、映画は同時に多くのフランス人憲兵がドイツ人のために汚れ仕事するのをいとわなかったことも描いている。これは力強い映画であり、去年のモントリオール世界映画祭で観客賞、エキュメニカル審査員特別表彰と併せて、最優秀作品賞を獲得したのもうなずける。
     1943年、フランスの田舎での実際の生活をもとに描かれる本作は、村にジプシーの一団が到着するところから始まる。村長と獣医のテオドア、そして町からきた学校教師マドモワゼル・ルンディは一生懸命この新参の訪問者を助けようとする。警察に捕まらないために必要な手続きをしたり、ルンディの場合は子供たちが学校に通えるようにしたりした。孤児のクラウドは、新参者の風変わりな風俗習慣に魅せられ、ジプシーの家族の一員になりたがる。中でもまぬけでいかれたバイオリン弾きのタローシェと仲良しになる。しばらくの間、ジプシーの一家はテオドアとマドモワゼル・ルンディのお陰でこの危うい状況の中でも生き延びることができた。しかし、フランスとドイツの当局は引き締めを強化し、もうこれ以上ジプシー一家が平和に暮らすのを手伝うわけにはいかないことは誰の目にも明らかだった。
     この映画は一人の主役によるのではなく三人の秀逸な役者によるアンサンブルキャストになっている。ガトリフの映画にはつきものの陽気なジプシー音楽が全編にあふれ、日常生活の細部やニュアンスを巧みに描き出している。
    ただ、映画祭で賞をも獲得したこの映画がただの一館でしか上映されないのは悲しむべきことだ。英語字幕版さえ作られていない。
    さて、本作は、IMDB(Internet Movie Database)で調べると、カナダ、フランス、スイス以外ではオーストラリア、トルコの映画祭でしか上映されていない。日本ではどうだろうか。上映が叶うことを願うばかりだが、一方で今日厳しさを増す独立系の外国映画の配給事情を考慮すれば、無責任な期待論だけを述べるわけにはいかない。(市橋雄二)

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    「私は皆さんに私の目を通じてマケドニアを見て欲しいのです。私の視点は常にコスモポリタンだからです。この小さくて美しい国が永遠でありますように。」2010年4月6日、マケドニアのイヴァノフ大統領からマケドニア勲章を授与された際にエスマ・レジェポーヴァは語った。
     「本物のすばらしい歌声で、エスマはマケドニアとロマの音楽を世界に広め、音楽界において世界的な名声を得たのです。」イヴァノフ大統領はエスマの音楽的な偉大さと慈善活動がその受章理由であることを述べ、「今日のセレモニーは世界ロマ記念日である4月8日の2日前に行われました。ロマ・コミュニティーはマケドニア社会の重要な一部であり、エスマはロマの社会的、経済的状況の改善に尽くしてきた先駆者の一人です。エスマは才能、意志、忍耐力の面で常に壁を乗り越えてきた方です。」と讃えた。
     <ロマの女王>と称されるエスマ・レジェポーヴァは、勲章が国民のものであること、なぜならそうした人々なしに今日の成功はなかったことを強調し「これはマケドニア共和国に住むすべての国民、すべての民族への賞賛なのです。」と語っている。
     エスマ・レジェポーヴァ-テオドシエフスカは1943年、マケドニアのスコピエで生まれ、11歳のときにラジオ・スコピエの歌唱コンテストで一位に輝いた。その後、ステヴォ・テオドシエフスキー楽団に歌手として入り、約30年間歌い続けた。楽団を率いるテオドシエフスキー氏と結婚後、二人は5人の子供を養子にし、それ以外に47人の孤児を育て、2000回以上の慈善コンサートを行い、108枚のシングルと20枚のアルバム、15枚のCDをリリースするなどの活動を行ってきた。1976年にはインドのチャンディガルで行われたロマ音楽歌謡フェスティバルで正式にロマ音楽の女王の称号を贈られている。また、1971年に国際ジプシー委員会が組織しロンドンで開催された第一回世界ロマ会議において、ロマの伝統的な歌に新たな歌詞をつけた「ジェレム・ジェレム」がロマ民族の国歌として採択され、それを歌ったのがエスマだった。
    エスマは今回の受章について別のメディアのインタビューに次のように答えている。「今回の受章はとても意味があります。結局人はその仕事や貢献が認められたとき、地元で感謝されることが一番うれしいのです。これまでにもたくさんの賞をもらいましたが、今回のものと故チトー大統領から授けられた賞がもっとも心に響きます。」
    デイリーで更新はされていないようだが、エスマについての詳しい情報は本人のウェブサイトから知ることができる。(市橋雄二)

     100年前に生まれたジプシー・スイングの創始者ジャンゴ・ラインハルトは今でも最高のギタリストと評される。フランスでは、この偉大なるミュージシャンの生誕100年にちなんでCDの特別記念盤が発売され、テレビの特集番組が組まれている。
     ベルギーやフランスを放浪するジプシー(マヌーシュ)の野営地に生まれ、パリ郊外で育ったジャンゴは、小さい頃からバンジョーやギター、バイオリンを弾いていたが、18才のときに幌馬車の火事で右足に麻痺が残るほどの重傷を負い、左手の薬指と小指が自由に動かせなくなった。しかし、リハビリを経て奇跡的に杖の助けを借りて歩けるようになった。周囲からはもうギターの演奏などできないと言われたが、左手のハンディキャップが全く新しい音楽テクニックを生み出すこととなった。 彼は、ソロを演奏する際には無傷の2本の指と親指を使い、コードを刻むときだけ負傷した2本の指を添えた。
    ジャンゴの独自性は1920年代のニューオリンズ・ジャズとフレンチ・ワルツ(アコーディオン伴奏による3拍子のダンス音楽)そしてジプシー音楽の融合にあった。そして、それはやがて「ジプシー・スイング」と呼ばれるようになった。1934年、パリのバイオリン奏者ステファン・グラッペリらとフランス・ホット・クラブ・クインテットを結成。この弦楽器のみによるユニークなジャズ・アンサンブルによってヨーロッパが一躍ジャズの一拠点に躍り出ることになった。そして、コールマン・ホーキンス、ルイ・アームストロング、ディジー・ガレスピーらと共演し、多くのミュージシャンがジャンゴから大きな影響を受けたことを明らかにしている。
     ロマ・スィンティ(ドイツのジプシー)の多くがナチの迫害に遭っていたとき、ジャンゴはパリにいて第二次世界大戦を生き延びた。伝えられるところによると、彼の音楽の才能を買っていたドイツ空軍の将校に庇護されていたという。
     生誕から100年、43才の若さで死去してから50年以上が経つ今日でも、ジャンゴの音楽は生き続けている。フランスで人気ジャズ奏者のリストには必ずクリスチャン・エスクードやビレリ・ラグレーンのようなジャンゴの流れをくむマヌーシュのギタリストの名前が入る。ジプシー・ジャズは常にフランスのラジオから流れているし、マヌーシュ・ジャズを聴かせるクラブはパリ中のいたるところにある。
     ジャンゴの名は日本においてもジャズファンには馴染み深い。今回の記事に触れてネットで調べてみると、誕生月の1月には東京で生誕100年の記念ライブイベントが開かれ、NHK-FMのジャズ番組で特集が組まれていた。さらに、日本ジャンゴ・ラインハルト研究会という団体もあって、かなり熱心なフォロワーがいる。ジャズもポピュラー音楽の発展の一つの原動力だとするならば、その貢献はビートルズやマイケル・ジャクソンに比肩しうると言っても過言ではない。(市橋雄二)

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    <デンマーク出身の写真家ヨアキム・エスキルセンが妻で作家のツィア・リンネとともに、ロマの人々の暮らしを記録しようとハンガリー行きを決心したのが9年前。ここでの4ヶ月間の滞在が7年に及ぶ長いプロジェクトの始まりとなった。ロマの人々のことについて知れば知るほど彼らのことが気に入り興味も深まった。そして、その後インド、ギリシア、ルーマニア、フランス、ロシア、フィンランドと撮影の旅を続け、2008年に写真集を出版した。時に何ヶ月もロマの人々と生活をともにしたが、プライバシーが全く無く気が狂いそうになったこともあるそうだ。町のはずれで、通りで、そして森の中で、ゴミ捨て場で、小屋やテントの中で、エスキルセンが写真を撮り、リンネが文章を書いた。写真集はヨーロッパでいくつかの賞を受賞。写真展が今もドイツで開かれるなど反響を呼んでいる先月11月ドイツ・シュピーゲル紙オンライン版が、この写真展に触れてエスキルセン氏のインタビューを掲載している。「写真を見ると、従来イメージされているいわゆるジプシーの生活を伝えているものが多いが・・・」という記者の問いに対し、写真家は次のように答えている。「私の写真が、今世の中に流布するロマに対する固定した考えを取り除き、より細部を写し取った写真を提供することに役立てればうれしい。私の写真には、民族差別やその他様々な困難にもかかわらず生きることの喜びに満ちた人々が映っています。ぼろぼろの服を着て腕にぐずる赤ん坊を抱えていたとしても、被害者として描かれているのではないという事実への彼らの誇りが感じられます。彼らはまるで王様や女王様のように(堂々と)カメラを見つめています。たとえ、もっともみすぼらしい背景を前に立っているとしても、です。」(エスキルセン氏のウェブサイトでは写真集に掲載されている写真を一部見ることができる。現在ドイツでは14000人(そのうち10000人がロマ人)のコソボ難民の送還が議論を呼んでいる。独立を果たして平和な状態にあるコソボ地域に自発的な帰還を推奨する国連に対して、ドイツ政府はコソボ当局と協定を結び強制的に送還することを計画しているという。ドイツで生まれ育った子供たちはコソボ地域の言語であるアルバニア語が話せない上に、ロマの人々には雇用もない。このような状態で帰還させることは新たな緊張を生むとの懸念が広がっている。(市橋雄二)

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    ■アウシュビッツを生き延びたロマの少女が大人になって誰に教わるでもなく絵を描き始めた。足を高く蹴り上げて踊る男とロングスカートの女、画面いっぱいのひまわり、雪の中の幌馬車、そしてアウシュビッツで辱めを受ける全裸の女性たち・・・。絵には明るくて力強く、どこか暖かみのある、あらゆる人を包み込むような優しさが漂っているサンフランシスコの北部にあるソノマ州立大学の図書館で9月17日から一ヶ月間、ロマの画家による絵画展が開催されるというニュースを見て、大学のホームページにアクセスしてみた。ホームページ では、数点の絵が画集のページをめくる様に見られるようになっていて、居ながらにして絵画展(あくまでも一部だが)を楽しむことができる。そして、初めて目にした数点の絵にとても心を動かされたのだった。ツェイヤ・ストイカさんは1933年オーストリア生まれの76才。ナチ時代に多くのロマが虐殺の犠牲になったことがほとんど知られていないとの思いから、1988年には自らの体験をつづった手記も出版している。今回の絵画展は、ソノマ州立大学のドイツ語教授グロッベルさんが、3年前にマイノリティーに関するセミナーでウィーンを訪れた際に、ストイカさんに初めて出会い、ストイカさんのアパートに招かれてたくさんの絵のストックを見たときの「衝撃的な体験」から始まったという。今年2009年の春にオレゴンのパシフィック大学、そしてソノマ大学のあとはヴァーモント州ストウのギャラリーに巡回することになっている。ストイカさんの絵が海を渡るのは初めてだそうで、自分の絵がアメリカで公開されることを涙を流して喜んだという。1999年にはストイカさんのドキュメンタリー映画も作られていて、展覧会に合わせて上映されるそうだ。 前述の電子画集はホームページに載っている男女の踊りの絵をクリックすると見ることができる。もっとも心を打たれる絵はやはり、アウシュビッツの女たちを描いた一枚だ。絵の横にはストイカさんによるコメントが次のように付されている。「彼女たちはとても恥ずかしいのです。しかし、手は二本しかありませんので、恥部を隠すか両目を覆うか、どちらかになってしまいます。だから、彼女たちの顔には目がないか、あってもとても薄いのです。この絵は「アウュヴィッツの美人たち」といいます。オーストリアでは美しい女性についていろんなことが言われますが、これこそが本物、本当の美人です。」(市橋雄二)

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    ■2009.7.04  オーストラリアのロマ・コミュニティ《ジェレム・ジェレム便り⑦》
    ●オーストラリア大陸の西の端に位置するパースのロマ・コミュニティが比較的頻繁にニュースを発信しているので気になっていた。オーストラリアは1980年代以降白人を優遇する「白豪主義」から、世界中から広く移民を受け入れ、それぞれの文化的背景を尊重する「多文化主義」へと大きく舵を切った。そして早くから行政上ロマを他のヨーロッパ系、アジア系移民と同様エスニック・グループの一つとして認定し、教育や住宅、医療などの住民サービスを充実させてきたこともあり、ロマ移民にとって比較的住みやすい土地になっていることが背景としてありそうだ。<br>
    このパースのロマ・コミュニティで30年以上活動してきたのがRomani Australian United Perth W.A.(RAUPWA)という団体で、現在地元のFMラジオ局で週一時間のロマ語番組の放送枠を持っている。毎週木曜日の午後8時から、ロマ音楽、ニュース、地域情報告知、ロマに関する話題などがロマ語、マケドニア語、英語で流されている。放送しているのは6EBAという多言語FM局で各移民コミュニティ向けに約80の言語の番組があり、インターネットを通じてもリアルタイムで聴くことができる。ロマ語放送はこちらへ。http://www.mrtawa.org.au/1/romany.php
    かつては世界のローカル言語の番組を聴こうとすれば、短波ラジオにかじりつき、微妙な指の感覚を頼りにダイヤルを回して雑音の中から探し当てたものだが、インターネットラジオの出現により状況は一変し、実にクリアな音でいとも簡単に世界中のラジオ番組にアクセスすることができるようになった!)RAUPWAは、そのほかロマの文化や歴史をテーマにしたイベントの開催、来年はロマ語学校の設立と活動範囲を広げつつある。<br>
    また、RAUPWAが発行するニュースレターによると、ロマがオーストラリアに初めて到着したのは1788年のことだった。幌馬車で国中を移動し、果実の収穫やさとうきびの刈り取りなどの季節労働や鍛冶、皮革加工、金属加工、材木伐採、肉屋、貸し馬業などを生業としていたという。当初はアメリカに代わる流刑植民地としてイギリスからの移民が多かったが、その後はセルビアなどの東欧からの移民も多く、近年はロマ語のFM局の使用言語からもわかるようにマケドニアからの移民が多いようだ。そういえば、2006年にマケドニアのロマ居住区シュト・オリザリを訪問した際、夏の結婚シーズンにオーストラリアから帰ってきたという話を何度か耳にしたことを思い出す。(市橋雄二)

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    ■2009.7.04  ウェールズの町から:《ジェレム・ジェレム便り⑥》
    ●ロンドンから西へ約250km、カーディフ(Cardiff)という町がある。ケルト海に通じるブリストル海峡に面した人口およそ30万人の港町で、1955年からはウェールズの首都となっている。今日はこの町から発信された「小さな情報」をご紹介しよう。
    カーディフで、この6月30日<ジプシー、ロマおよびトラベラー歴史月間>という活動が始まった。元々イングランドで行われていたもので、今回ウェールズで初めて開かれるという。相互不信の壁を取り除き、ジプシーの若い世代によりよい生活の機会を提供するという目的で行われるもので、自身の多様な文化を知ると同時に定住者側にはイギリス国内で急速に増え続け、30万人にもおよぶマイノリティーについて理解を深めるよう呼びかける。
    カーディフ市内には二ヶ所のジプシー、ロマ、トラベラー居住地区があり、およそ1500人が暮らしている。そして、その半数はキャラバン係留地が不足していることと子供たちの健康と福祉を理由に、定住の住まいに暮らしている、と記事は伝えている。(逆に言えば、半分は今でも移動生活を続けているということになる。)
    初日に行われたイベントでは、ジプシー居住地区の子供たちによるサーカス、ストーリーテリング、ビデオショー、花細工、占い、アイルランドの伝統舞踊など様々なパフォーマンスが行われた。イングランドで活動を続け、今回カーディフでのイベントをサポートしているコーディネーター、パトリシアさんによれば、このような活動によって博物館や図書館との共同プロジェクトが増え、イングランドの学校カリキュラムにジプシーの歴史を取り込むことに成功するなどの成果があがっているという。そして記事からは、隣人としていかにジプシーの人々と付き合うかということが、今日のヨーロッパ社会において依然として大きな課題であることが伺える。
    カーディフ生まれのジプシーで苦労の末ダンサー、振付師になったイサック・ブレイクさんは、現在ウェールズ国立音楽演劇大学で教師を務めているが、取材に答えて次のように語っている。「ジプシーの子ということが知れるだけで、のけものにされるのです。そして今、自分にできることとして子供たちに何かを伝えたいと思うようになりました。固定観念を取り払い、ロマの人々とロマでない人々がお互いに分かり合えるようになれるよう願っています。」
    <ジェレム・ジェレム>のメールグループでは、このようなローカルな回覧板的情報が時折配信される。そのひとつひとつは小さな情報かも知れないが、ヨーロッパの至るところで行われているジプシーに関する様々な活動を見ていると、完全に分かり合えるということは容易ではないにしても、少なくともお互いが共存共生できる社会を実現しようというロマ側と非ロマ側の両方の意志は伝わってくる。(市橋雄二)

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    ■2009.2.4  パレスチナのジプシー<ドム>の惨状:《ジェレム・ジェレム便り⑤》
    ●イスラエル軍がアメリカ・オバマ新大統領の就任に合わせてパレスチナ自治区ガザへの攻撃を停止した。イスラエル軍は、ガザを実効支配するイスラム原理主義組織ハマスに対し、ガザからイスラエル領に発射されるロケット弾への報復として昨年末攻撃を開始し、空爆に続き地上部隊を侵攻させた。この間のパレスチナ側の死者は1300人、負傷者は5000人を超えた。報道によると死者のうち少なくとも半数は武装勢力に関与しない民間人だという。
    実はこのパレスチナ側の被害者の中に西アジアで<ドム>と自称するジプシーの人々が含まれている。エルサレム・ドマリ協会(Domari Society of Jerusalem)の会長アモウン・スリームさんが2009年1月6日付けのメールニュースでこの事態を訴えている。調べたところパレスチナに暮らすジプシーの数はおよそ5000人で、うち2000人はエルサレムに住むとあるので、ガザ地区にも1000人を超える人々がいるものと思われる。
    メールニュースのなかでは正確な数は述べられていないが、かなりの死者とそれを上回る負傷者が出ているようで、ただでさえ少数の彼らのコミュニティがまさに滅びようとしている。また、同胞に向かっては自分たちの文化を守り生き延びるためにお互いが団結して助け合わなければならないと呼びかけている。怪我をして頭から血を流す女性や腕と足が吹き飛ばされて横たわる男性など痛ましい写真も添えられている。最後に義捐金の送金先も書かれているが、とにかくまずこの悲惨な事実を多くの人々に知ってもらいたいという静かな叫びだ。
    ドマリ協会はインターネットの公式サイトの情報によれば、現会長のスリームさんにより1999年にエルサレムで設立され、パレスチナ自治区に暮らすドマの女性と子供の支援を目的として活動している団体である。最近の活動としては女性の自立支援を促すためのアクセサリーや布製品など手工芸品の教室や子供向けのアラビア語識字教育、また就学児童への学用品の無料配布などを行っている。ドマによるドマのための自助組織と言えるだろう。
    自らもドマのスリームさんの文章には、イスラエルやハマスといった固有名詞が一言も出てこない。戦争の理由が問題なのではなく戦争そのものが悲劇なのだ、というメッセージが伝わってくる。
    (市橋雄二)

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    ■2008.12.30  仏教徒になったジプシー:ハンガリーのジプシーとユーロブディズム(ヨーロッパ仏教)《ジェレム・ジェレム便り④》
    ○今回は、ハンガリーで仏教に入信するジプシーが増えているというニュースを紹介しよう。
    ニュースの発信源はFriends of Western Buddhist Order(FWBO)(西洋仏教僧団友の会)というイギリス発祥の仏教徒組織である。まず、この団体は1967年イギリス人僧侶サンガラクシタ、本名デニス・フィリップ・エドワード・イングウッドによって始められ、宗派にとらわれず、現代に適した形で仏教の教えを実践することを旨とする。現在インドを含む20ヶ国以上に活動拠点を持ち、ユーロ・ブディズム(ヨーロッパ仏教)の中心的存在となっている。
    FWBOを日本で最初に紹介されたのは筆者も知己であった故島岩(しまいわお)氏である。興味のある方は『聖者たちのインド』島岩、坂田貞二編(2000,春秋社)の第6章「サンガラクシタとユーロブディズムの成立」を参照されたい。また、同組織のインターネット上の公式サイト」では、日々の活動の最新情報を見ることができる。
    もうひとつ背景として、インドの不可触民解放運動の指導者アンベードカル(1891-1956)に触れなければならない。アンベードカルは不可触民の出身ながら弁護士として活躍する一方反カースト運動に身を挺し、インド独立後はネルー内閣の法務大臣に就きインド憲法の草案を作成したほか、仏教に改宗して新仏教を説き、近代インドにおける仏教革新運動の元となったことで知られる。(詳しくは『アンベードカルの生涯』ダナンジャイ・キール著、山際素男訳(2005,光文社新書)を参照されたい。)
    さて、ニュースの伝えるところによると、4年ほど前にハンガリーのジプシーのグループがFWBOに連絡をしてきたという。彼らはアンベードカルのことを知りとても感銘を受けるとともにインドの不可触民とのつながりを感じ、アンベードカルの社会改革へのメッセージはそのまま自分たちに当てはまると感じたという。
    そこから交流が始まり、FWBOスタッフはハンガリーを訪れ、仏教徒となったジプシーのグループはイギリスとインドを訪問した。ハンガリーのジプシーはFWBOの活動を理解するのに時間がかかったとも述べている。なぜならヨーロッパの仏教といえば白人の知識人たちのものという先入観があったためだ。ところがFWBOの人々はこれまでのハンガリーの仏教徒とは違い、ジプシーの人々が直面している社会問題に真剣に向き合ってくれたのだという。
    ジプシーが出立したあと13世紀初頭にインドで仏教が滅びてから約750年。不可触民と外国人の再解釈を通して現代性、普遍性を獲得した新しい仏教の姿は、日本にいるとなかなか見えてこない。
    (市橋雄二)

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    ■2008.11.16  マケドニアのローカルな音楽フェスティバル《ジェレム・ジェレム便り③》

    ○ジプシー・ブラスバンドといえば日本では映画にもなったルーマニアの<ファンファーレ・チョカルリア>や来日公演も多いマケドニアの<コチャニ・オルケスター>などが有名だが、彼らは氷山の一角にすぎず、現地には数多くのブラスバンドが存在する。
    メールニュースによると、この10月13日、マケドニアの地方都市クマノヴォ市で "ROMA TRUBA FEST 2008"という音楽フェスティバルが開催された。クマノヴォは首都スコピエの北東に位置するロマ人口の多い町だ。私たちも2006年にスコピエから陸路夜行バスでイスタンブールに移動した際にブルガリア国境に向かう途中立ち寄ったが、石造りの家屋が立ち並ぶこじんまりした中世ヨーロッパ的な趣の町だった。
    TRUBAとは、マケドニア語でトランペット系楽器を、広くは象徴的に金管楽器(ブラス)を指すものと思われる。したがって、イベント自体はロマ・ブラス音楽祭とでも訳すとわかりやすいかも知れない。ジプシー・ブラスバンドはチューバや各種ホルンも編成されるが、花形はソロで活躍するトランペッターで、そのトランペットもピストンバルブやロータリーバルブという構造上の違いによってバリエーションがある。いずれにしてもオスマン帝国時代の軍楽隊の放出楽器が起源だろう。それはちょうどジャズ・バンドがアメリカ南北戦争後に払い下げ楽器を使うところから始まったように。
    今回のメールニュースを発信しているのは、このフェスティバルを主催したルスィト・シャキール・アンサンブルの団長サメット・サリエフスキー氏。この日はマケドニアのスコピエ、シュティプ、ストゥルミッツァなど4つの都市から集まった5つのブラスバンドが参加し、ゲストとしてグチャ・フェスティバル(セルビアの有名なブラス音楽祭)で優勝したセルビアのボヤン・リスティッチ楽団が招かれた。ソロ部門ではジャンボ・アグシェフが優勝し、オーケストラ部門ではスコピエの<ピチカート・オルケスター>が一等賞を獲得した。最優秀ソリストには金の冠が授与された。調べてみると、アグシェフ(ジャンボはあだ名)は、ヨーロッパでは名前の知られたミュージシャンのようだ。
    町の広場で行われるローカル色たっぷりのフェスティバルは毎年行われているらしいが、きちんと審査をして賞を決め、金冠やトロフィーを授与するというこの催し。本当に音楽と踊り、そしてお祭りが好きな人々だ。そして思い出すのが、マケドニアの地元のロマテレビ局が運営するロマ映画祭やミス・ロマ・コンテストだ。賞を競うことも彼らの楽しみの一つに違いない。
    (市橋雄二)

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    ■2008.10.11  欧州ロマ・サミットの成果とは《ジェレム・ジェレム便り②》
    ○今回の<欧州ロマ・サミット>に関しては、日本のメディアでもネットニュースなどで短く報じられた。そこでは、バローゾ欧州委員長が「あらゆる手段を尽くす」と述べたくだりを紹介し、教育や就職、住宅などに関する支援を約束した(9月17日付産経ニュース)として好意的に伝えている。一方、9月16日付け国際版ヘラルド・トリビューン紙がAP電として伝えた記事は「EU、初めての欧州ロマ・サミットで非難される」という見出しでロマ側の反応を中心に違った見方を示している。
    ロマの代表は、イタリア政府が今年6月に発表したロマ人の指紋採取政策(イタリア国内のロマ人集落で暮らすロマ人とその子どもたちから指紋を強制採取するという治安強化のための移民規制の一環)をEUの行政機関として批判声明を出さなかったことに怒りを露にし、強く非難したという。一方で、Open Society Instituteなどの財団を通じて慈善活動を行い、長くロマの人権擁護のためにも闘っている米投資家ジョージ・ソロスが演壇に立ち、イタリア政府への法的措置の必要性を訴えると、ロマ団体から拍手を浴びたという。
    今回の会議の目的のひとつは、各国政府関係者、ロマの代表、非政府組織を集めて27カ国のEU加盟国に暮らす約1千万のロマが直面している様々な問題への関心を高めるということだった。この点では一定の成果があったものと思われるが、総論ではなく各論を求め、差別政策への迅速かつ徹底した対応を求めたロマの人々の切実な思いとの間には今なお隔たりがあることを浮き彫りにしたともいえる。
    (市橋雄二)

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    ■2008.9.14  ロマ・コミュニティー向けのメールグループ《ジェレム・ジェレム便り①》 EUロマ・サミット開催
    ○この9月16日、ベルギーのブリュッセルでEU(欧州連合)欧州委員会が主催する初めてのロマ・サミット(会議)が開催される。EU関係部局や各国政府、市民団体から400名を超える代表者が一堂に会しEU内のロマ・コミュニティーがおかれている現状を確認しつつ、いわゆるロマ問題(根強い差別とステレオタイプ、そしてそれらに起因する様々な社会問題)解決のための具体的な政策を討議するという。
    チェコやルーマニアなど東欧諸国へと加盟国を拡大させてきたEU域内には今日約1200万人のロマの人々が暮らし、最も大きなマイノリティー集団のひとつに数えられるようになった。ロマ問題は各国に共通する要素が多く、今まさに国の垣根を越えて解決しなければならない重要かつ深刻な社会テーマなのである。
    日本のメディアではほとんど取り上げられることのないロマの今の状況について、ヨーロッパでは日常的に様々なニュースが報じられている。わたしが参加している世界のロマ・コミュニティー向けのメールグループ《ジェレム・ジェレム》に投稿される記事はこうした日々の動きや世界中のロマの動向を伝えていて興味深い。くだんのロマ・サミットのこともこのメールグループの記事で知った。ただし、あくまでも回覧機能がメインであるためひとつひとつの話題について詳しい背景が語られるわけではなく、ネット検索などを利用して必要に応じて知りえた情報を補強しなければならない。ロマ・サミットに関していえば、EUのポータルサイト内に掲載されているプレスリリースが詳しく会議の内容と経緯を伝えている。
    今回の会議に出席する欧州議会のロマ出身議員Livia Jarokaさん(ハンガリー市民連盟、ヨーロッパ人民党・民主グループ所属)はヨーロッパのニュースサイトの取材に対して「ある調査によるとヨーロッパ人の70~80%はロマに対して反感を抱いている」といい、「このことが最大の問題だ」と述べている。学校における隔離教室や雇用差別、居住地のインフラ未整備など具体的な問題の根源にあるのは、こうした人々の感情にあるという指摘である。(ちなみに欧州議会議員785名中、ロマ系議員はJaroka氏を含め2名が在任中)ロマの人々がヨーロッパに住むようになって約500年。長い歴史の中で蓄積されてきた根深い問題にEUとしてどのように取り組むのか。単なる政治ショーに終わらせることはよもやないと思うが、その具体的な施策に注目していきたい。(今後もメールグループ《ジェレム・ジェレム》の記事の中から「これは」という話題を取り上げて報告していきます。)
    (市橋雄二)

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    最近の欧州のジプシー(ロマ)の状況

    ■2008.6.03  最近の欧州のジプシー(ロマ)の状況
    ○最近の朝日新聞に2回ほどジプシー(ロマ)に関する記事が出た。こうしたジプシー(ロマ)関連の記事の内容は彼らが欧州において抑圧されている状況についてのものが多く、取り上げ方という面ではやや画一的である。とはいえ、内容はそれほど間違ったものではなく、むしろジプシー(ロマ)の立場に配慮したものであるが掘り下げ方がやや不満である。。
    欧州では1989年のベルリンの壁、崩壊後に、旧東欧やバルカン半島から大量のジプシー(ロマ)が西欧に流入しはじめ、その後のユーゴスラビア解体もそれらの流れを加速させた。その後20年近く経過して旧東欧の多くの国々がEUに加盟し、旧ユーゴもそれなりに安定しはじめたとして、仏、伊、独などのEU諸国が東方へジプシー(ロマ)を送還させる動きが活発化してきた。EU各国も内部にそれぞれ格差・移民問題をかかえており、少しでも不法滞在者を帰還させたい本音をかくさない。受け入れる側からセルビアの事情、送り出す側としてフランス、サルコジ政権の不法移民の強制送還そしてイタリアのベルルスコーニ新政権の移民規制強化案などが骨子である。
    大きな流れは分かるが、実際に不法滞在者とされるジプシー(ロマ)の人びとの生の声が聞こえてこない。かれらに直に取材することの困難さはあるが、記事にでる内容はだいたい行政サイドの意見、支援活動、人権擁護団体のひとびとの意見で構成されている。それぞれの見解が要領よくまとめられており、分かりやすいのだが、何となく物足りないのだ。記事から記者が人間としてなにを感じているのか伝わってこない。当事者であるジプシー(ロマ)の人びとに直接取材していないのだ。ロマ人のなかにも様々な階層・境遇・職業があるはずなのに、彼らの肉声が聞こえてこない。もどかしく感じる所以だ。
    1989年の大量移住・流入以前のはるか昔、数百年にわたりジプシー(ロマ)の人びとは西欧・南欧・北欧・ロシアなどに分布してきた歴史がある。
    西欧の音楽・舞踊などに分野に限っても、ジプシー(ロマ)の人びとが従来の西欧文化にもたらした豊穣な実りは明白であり、それらの影響がなかったならば、今の文化は貧弱なものになっていただろう。日常生活に深く浸透しているだけに、あらためて考えることをしないほどだ。
    こうしたジプシー(ロマ)の人びとがはたしてきた積極的な実りの面にも目を配った報道がないと、これらの記事を読み続ける読者にはゆがんだイメージばかりが増幅されていく。
    旧ユーゴのなかのマケドニアに行ったとき、これらの問題の一端をみたが、様々な矛盾を生きながらも、生きることの基本をきちんと見せてもらった思いが強い。差別、排斥、不法などだけでは語れないジプシー(ロマ)の多様で、したたかな生き方にふれた報道が増えて欲しい。

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    ■2007.8.15  アルメニアのこと
      ○ アルメニアのジプシー(ボーシャ)の存在を確認し、できれば彼らのうたなどを採録したいと思いながら、日本ではほとんど情報が取れないままぶっつけ本番覚悟で行ったアルメニア取材の映像・音の素材を整理・編集しながらDVDを製作中である。
    アルメニアについての平均的日本人のイメージは希薄なものだろう。しかしながら、ジプシーが北西インドから出立し、ヨーロッパ大陸各地に拡散するジプシー・ロードとも言うべき経路を考えると、アルメニアは重要な地域であった。そこに何らかのジプシーの痕跡があるのではないかというのが訪問の理由であった。
    ○アルメニアはグルジア・アゼルバイジャンとともにカフカス3国に数えられ、地理的にはトルコ、イランのほぼ北に位置する。アルメニア民族の歴史は古く紀元前7~5世紀までさかのぼれるし、紀元4世紀には国としてキリスト教を最初に受け入れた国家である。9~11世紀には小アジア東部一帯に広がる大アルメニアを形成する一大王国であった。
    アララト山(5165m))はアルメニア民族の心のよりどころとされており、ノアの箱舟が漂着したところとされているが、現在はトルコ領である。黒海とカスピ海の間に位置しながら、グルジア、アゼルバイジャンと違って、港湾を持たない地形状の弱みを抱えて、歴史のすべての時期にわたって領土の分割と植民地化の命運をたどってきた。特にロシア、トルコの両大陸との関係では常に圧迫を受けてきた。
    アルメニア民族にとっての最大の惨事・悲劇は第一次世界大戦をきっかけに起こったトルコ領内でのアルメニア人虐殺であり、100万人を超える人びとが死亡し、国外脱出者は50万人に及んだという。この問題(ジェノサイド)は現在にまで深刻な国際問題になっており、虐殺の事実を認めるべきだとするトルコ人ジャーナリストが暗殺されるなどの事件は記憶に新しい。
    ○そうした民族的悲劇を記憶にとどめるアルメニアにひっそりとジプシー(アルメニアではボーシャと称される)は生きていた。DVDは9月に完成する予定である。

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    ジョニー・デップ

    ■2007.7.17  先日、市橋雄二さんと会った際にジョニー・デップのちょっとした話を聞き、詳細を尋ねたら、以下のようなメールが届いた。何となく納得できる内容。(氏の同意のもと記す)
    市川様
    ネイティブ・アメリカンの血をひく彼はやはり少数民族に関心が深いようです。以下のブログにあるインタビュー記事が参考になります。この記事にあるThe Man Who Criedは邦題が「耳に残るは君の歌声」です。ルーマニアのジプシー楽団タラフ・ドゥ・ハイドゥークスが共演しています。まだ観ていませんが、近々レンタルビデオで観てみようと思います。 市橋雄二

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