映画の最近のブログ記事

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韓国映画の持つ底知れぬパワー全開の快作であることは間違いない。『チェイサー』のナ・ホンジン監督とハ・ジョンウ、キム・ユンソクのコンビが再び組んだ体臭むんむんの暗黒映画である。
グナム(ハ・ジョンウ)は中国の延辺朝鮮族自治州に住む朝鮮族のタクシー運転手。多額の借金を背負った上、妻は韓国に出稼ぎに行ったきり音信不通。生活苦にあえぐ日々を送る。そんな時、犬の売買市場で会ったミョン(キム・ユンソク)が、10日間の間に、ソウルにいる大学教授を殺害し、その親指を切り取って持ち帰れば、借金を帳消しにするとの取引を持ちかける。妻と娘との暮らしを取り戻したいグナムは悩んだ末に代理殺人を請け負い、ソウルで消息を絶った妻を追い韓国に密入国する。
ここでいう犬とは食用に飼育された犬のこと。朝鮮半島と中国南部の貴州省などでは犬は食料であり、日本でも上野近辺の朝鮮料理店ではメニューにのっている。以前、貴州省を取材した1990年代には街中に犬の肉専門店を見聞している。犬市場の描写などは、その意味が日本人にはよく伝わらないかもしれないが、こうした描写が画面に厚みを加えている。
代理殺人と妻探しでソウルに入ったグナムが想像もしなかった事態がソウルで巻き起こる。そこからの4章仕立てのストーリーは筋を追うのがしんどくなるような複雑さである。 血まみれのバイオレンスシーンの執拗なまでの描写が続く。徹底的にナイフ,斧による殺戮シーンのオンパレード。そして無鉄砲なカーチェイス。圧倒的な疾走感を伴いながら 救いがたいラストへとなだれ込む。演出はテンポ良く、カメラも躍動する。筋立ての難解さを越えて迫るものがある。韓国映画の底力か。
この映画では日本人には理解しがたい民族問題が背景にある。主人公が中国に居住する(少数民族)朝鮮族であるという背負だ。こうした背景をもつ人物を主人公にした韓国映画は始めてかもしれない。
 中国には人種的偏見に基づく差別意識というよりも、むしろ歴史的な漢民族支配の構造が地理的、政治的、経済的に堅固に存在しており、朝鮮族をはじめ55の少数民族にたいする実質的な差別構造が確立している。チベット族、ウィグル族などによる抵抗運動はあるが、多くの少数民族は漢民族の慰撫政策、漢化同化政策に飲み込まれている現状だ。
北に住む朝鮮人は国境を接する延辺朝鮮族自治州に脱北するが、漢民族、朝鮮族支配には抗しえない。朝鮮族のグナムは韓国に密入国するが韓国人からの蔑視に遭遇する。差別構造が朝鮮半島と中国の朝鮮自治州のあいだで循環しているのである。出口なしのように見える状況のなかでの壮絶なバイオレンスドラマである。
グナムが抱えた背景を知るとき、彼の様々な感情をたたえた表情がにわかに切実感を伴いながら、迫ってくる。
俳優陣が素晴らしい。田中邦衛を2枚目にしたようなハ・ジョンウの表情が秀逸であり、 キム・ユンソク扮するミョンの不気味な不死身男の存在感が際立つ。
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カミソリの切れ味ではなく、鉈で大魚をさばくごとく、ざっくりと袋小路にある日本列島の今を鮮やかに浮かび上がらせた異色作である。地方の苦悩を描くことで日本全体の矛盾を逆照射している。「サウダーヂ」とは郷愁、情景、憧れ、そして、追い求めても叶わぬものを意味するポルトガル語だという。
舞台は不況と空洞化に悩む地方都市、甲府。この町に暮らすどん底景気に翻弄される土木建築業の人びと、日系ブラジル人,タイ人などのアジア人が中心の移民労働者――彼らが本音丸出しで、ぶつありあい、追い詰められながら苛烈な日本列島で生きていく様を描いた群像劇だ。
話は2人の男を中心に進むが、とりたてて起伏あるストーリーがあるわけでもなく、街自体が主役のような映画であり、生きているかのような街の表情や工事現場が乾いた抒情を生んでいる。 "派遣"で土方として働き始める猛はHIPHOPグループ「アーミービレッジ」のメンバー。両親は自己破産しパチンコに逃避、弟は精神に異常をきたしている。多くの移民達が働く建設現場。土方ひとすじに生きて来た精司は妻がありながら、タイ人ホステスのミャオとタイへの生活を夢想する。不況が深刻化し、真っ先に切られる外国人労働者たち。精司の働く土建業会社も当然のように倒産する。重い現実が展開する。
移民問題はヨーロッパなどでも深刻な問題を起こしており、民族間の文化摩擦、差別意識、経済格差などから生じる対立、軋轢は容易には解けそうもない。日本列島においてもこの問題は内在化しているが、映画でとりあげたのは多分、この映画がはじめてではないか。
出口なしかに見える状況を描きながら、映画は不思議なことに暗くない。むしろ居直ったかのような、不敵さ、ふてぶてしさ,が漂うのである。それがこの映画の最大の成果である。暗い状況を絶望をこめて描くより、底を突き抜けたかのようなアッケラカーンとした描写がより現実を撃つ力があり、伝わる場合がある。実際にそこで生活している人々をキャスティングしたということから生まれた臨場感やブラジルやタイの人々のもつ開放的な野生味、野放図さが画面に躍動感を生み、より効果を発揮する。
そして特質すべきは全編に流れる音楽の洪水。ヒップホップを中心にラテン、歌謡曲、民謡などが効果的だ。
監督 富田克也。第33回ナント三大陸映画祭のグランプリ「金の気球賞」を受賞。
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ヴェンダース日本公開最新作である。私は彼の映画はかなり好きで、特に「パリ・テキサス」(1984)で受けた新鮮な衝撃は忘れられない。サム・シェパードのシナリオ、ライ・クーダーのギター、テキサスの風景の寂寞感など「イージー・ライダー」(1969)と並ぶロード・ムービーの傑作であった。
また、ライ・クーダーがアルゼンチンの老ミュージシャンを追う姿を16ミリカメラで捉えたドキュメンタリー「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」(1999)もとても面白かった。
「パレルモ・シューティング」もロード・ムービーともいえるだろう。特に舞台をヴェンダースの故郷、デュッセルドルフからイタリア、シシリー島のパレルモに移る後半はロード・ムービーそのものだ。パレルモの撮影は16ミリだったようで、画面のトーンが潮風に晒されたようなトーンで効果的だった。
主人公の売れっ子カメラマン、フィンを人気パンク・ロック・バンド。ディー・トーテン・ホーゼンのシンガー、カンピーノが演じるが、相当のはまり役だ。全体的な雰囲気に華があり、まなざしが深い。一見、華やかな暮らしに疲れ、生の実感をもてなくなり、魂の再生を求めてパレルモに行き、そこで安らぎを得るというシンプルなストーリーだが、そこにはヴェンダースの様々なこだわりが散りばめられており、そこがこの映画最大の魅力だ。
まず、パレルモの描写が素晴らしい。前半のデュッセルドルフの街の風景や最先端の仕事場などにあふれる機能美に対比するかのようにパレルモの描写にはその歴史が生む人々の匂いが漂う。フィンはそこに精神の安寧を見出す。観光客では入れないパレルモの裏街が息づくシーンにはヴェンダース独特の抒情が生まれる。
そしてデニス・ホッパーの死神。アメリカン・ニュー・シネマの旗手となった「イージー・ライダー」の監督でもあったデニス・ホッパーが久しぶりにヴェンダース作品に出演、そして2年後に亡くなるという意味でも感慨深い。死神は主人公フィンと対峙する存在ながら、生死について根源的な対話を交わす。
未来から射る弓矢がフィンを狙うシーンなど、死神のシーンには時空を行きかう映像的飛躍が展開し、映画全体に奥行きを与えている。
フィンが生への希望を抱く存在として絵画修復に従事するフラヴィアを演じるのはジョヴァンナ・メッゾジョルノ。生を体現する存在としてミラ・ジョヴォヴィッチが妊娠8日月の本人役で出演している。
全編に流れるヴェンダース好みの音楽も聞き所。
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現代スペイン社会の実相を、広い視座で浮かび上がらせた秀作だ。主人公ウスバルは末期の前立腺がんで余命2ヶ月の中年男。精神のバランスを失った妻とは別居中であり、2人の子供もある。不法滞在のアフリカ人や中国人労働者の手配師をやりながら、一方で死者の声を聞くシャーマンみたいなこともしつつ苦しい生活のなかで、懸命に生きている。
この映画を見ながら、余命2ヶ月という主人公の設定から、すぐ連想したのは黒沢明の「生きる」だった。市役所の1課長が死期を悟り、決意したのは戦後間もないころまだ少なかった児童公園を建設することで、そこから官僚社会の壁にぶち当たりながら、目的を達成するまでを、死後の通夜からの回想という絶妙の作劇術で映像化したものである。
一方、ウスバルは残していく子供たちへの愛情、病む妻への愛憎、そして不法滞在する中国人労働者たちやアフリカからの不法移民セネガル人たちとの接触を通じて呼び起こされる波打つ感情などに身もだえしながら、余命を懸命に生きる。。
ここにはスペインのバルセロナに生きる等身大の庶民の実相と、近年ヨーロッパ社会を覆う移民問題が重層的に絡み合い、解決を見つけがたい重いテーマが横たわっている。 移民による民族の多様性が生み出す社会的緊張感はヨーロッパ各国が共通に抱える苦悩だ。。
ガウディ・ピカソ・ダリのイメージがある華やかなバルセロナでも、一歩裏通りへ入れば貧困と闇社会が広がっている。そして中国人労働者が地球上に膨張する存在感に驚くのである。。
監督イニャリトゥはある種、距離間を保ちながらも、控えめな共感をたたえつつ人間像の造型に成功した。登場する人物は皆、憎めない善良さを内に秘めながらも多様な個性を秘めた人間として際立っており、絶望にまみれた現実のなかでの救いとなっている。法に触れるような危ない仕事をする人々にもそれなりの真実があるという、下手をすると安手の人生模様になりがちだが、人物描写には破綻がなく、視座が広い。。
ウスバルが絶望して、踊り子バーのようなところで酩酊するシーンは、そのまま「生きる」の志村喬が踊り子たちに嬌声をあげるあのシーンに直結する。あとで監督イニャリトゥは19歳のときに「生きる」を見ていたことを知るが、一種の黒沢へのオマージュかもしれない。。
アフリカ人、中国人問題までも視座に納めながらも、この映画の根本はウスバル本人の分厚い人物造型が見事な成功を収めていることだろう。人間的な弱さを抱えながら、最後には己の父親像への憧憬を獲得し、父性そのものを子供に伝えるというささやかながら、人生の要諦を貫徹したウスバルへの賛歌になっている。。
ウスバルを映じるバビエル・バルデルは今、世界で一番輝いている俳優だ。俳優の栄光について考える。。
蛇足。主人公が持っているシャーマン的資質、日本のイタコのような霊の呼び戻しの能力がウスバルにはあるようだが、若干説明不足か。。
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アフリカ最古の独立国であり、1974年の王政廃止クーデター後、社会主義エチオピアを目指しながらも、軍人政治による恐怖政治、粛正の嵐を体験したエチオピアの知識人の視点から近現代史を捉えたエチオピア映画である。が、この映画にはアフリカ映画独自の香りが凡百の政治映画の枠を超え、神話的余韻をたたえた異色作となっている。
監督はハイレ・ゲリマ。1976年に製作した代表作「三千年の収穫」(ロカルノ国際映画祭 銀豹賞)で、アフリカを代表する映画作家として知られるようになる。
  主人公(アンベルブル)は1970年代医者を目指し、故国エチオピアを離れ、ドイツに留学するが、そこで受ける人種差別などから、己の存在理由を確認するためにも故国への思いを強くしていく。母国の変革を目指して運動に参画し、やがて1974年の革命にいたる。期待を胸に帰国したものの、軍人政治による恐怖政治が横行した現実に絶望するアンベルブル。ヨーロッパにおいては異邦人として、己の居場所を模索し、母国においては知識人としての振る舞いに迷う。救いのない現実に押しつぶされそうになるアンベルブルの暗い表情が印象的である。
前半は寓話的な話からはじまり、次第に過去と現在のめまぐるしい交錯するイメージからアルベルブルの苛酷な体験が浮かび上がってくる。それは中国の文化大革命をテーマの幾多の映画で描かれ、ポーランドやグルジア映画でも繰り返し描かれた革命期に生きる知識人の悲劇的な人生模様である。あくまで絶望的で、暗く長いトンネルを進む物語だ。
こうした絶望のふちにあって、アンベルブルの母親と謎の女アザヌが唯一、肯定的なイメージに包まれ、画面に希望を灯してくれる存在として描かれている。女性が象徴化しているともいえよう。
故郷の貧しい村の描写は大地から匂いが漂うようでもあり、荒涼とした風土は神話的でもある。村人たちは因習的でありながらも、どこか素朴、童話的な存在に見えてくるのである。寓話的な村の様子とアンベルブルが体験する苛烈な一種の文化大革命的な波が並立するアフリカの現実をどう捉えれえばいいのかを見るものに迫る。
単なる政治的現実に翻弄された知識人の悲劇という図式化されたものではなく、アフリカの大地に根付く風土と精神文化の有り様が独特のニュアンスを生んでおり、この複雑性、多様性がこの映画の魅力といわねばならない。政治的な人間といえども、このアフリカ的風土からは離れなれないはずだという監督の思いを感じたのだった。
テザの意味は朝露と幼少期の二つの意味があるという。
本作品はヴェネチア国際映画祭2008のコンペティション部門に出品され、審査員特別賞・金のオゼッラ賞(脚本賞)・SIGNIS賞をトリプル受賞している。
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バレエをテーマにした映画としてともに出色の出来栄えだろう。「ダンシング・チャップリン」ではバレリーナの修練を通して、作品を仕上げていくドキュメンタリーとして、「ブラック・スワン」においてはバレリーナが創造する苦悩から幻覚にまで至るサイコスリラーとしてみるものを魅了する。
「ダンシング・チャップリン」はローラン・プティがチャップリンに捧げたオマージュのような作品で、ルイジ・ボニーノのために振り付け、彼だけが演じられるという。1991年初演時の全2幕20場を監督の周防正行が13場として映画用に再構成している。引退する草刈民代を記録するテーマとしても格好の素材だろう。
1部は公演までのリハーサル風景を骨子として、作品の成立、狙いなどをプティやボニーノへのインタビューで浮かび上がらせる。丹念に繰り返えされるリハーサル風景はバレエがいかに人間の肉体の限界に挑戦する苛酷なものであるかを表現するが、草刈民代の涼しげな容姿が画面を華やかな雰囲気で満たしている。監督,周防のバレリーナとしての草刈を憧憬し、尊敬している心根が垣間見える。
映画「街の灯」のシーンのリハーサルで、眼の見えない花売り娘と男(ルイジ)のからむくだりで、ルイジが繰り返し娘の仕草に自然な動きを要求するところが印象的。 2幕のチャップリンメドレーは「黄金狂時代」、「モダンタイムス」、「外套」、「キッド」、「街の灯」などチャップリンの諸作品をモチーフにしたシリーズで、これらの作品を観たものにはさらに当時の感懐が加わり、一層味わい深い内容だ。
この映画を観ながら、一番、興味深かったのはルイジ・ボニーノのチャップリンを演じる際の気持ちの持ち方について話したところだ。技術的にいかに上達しても、チャップリンを表現することは不可能で、けっきょく内面的に複雑な人間(チャップリン)を表現するのは、自分のなかから滲み出してくる力でしかないというような意味を繰り返し語ったことか。血のにじむような肉体的鍛錬をしたうえで、成果を決定する要素は技術を越えたところにある"なにか"なのである。
チャップリンはおよそあらゆる大衆芸能・・・サーカス、大道芸、うた、ダンスなど・・の本質を肉体化し、昇華させ、本人自身も通俗、悪、邪念など複雑な内面を抱えつつ、人間のもつ毒に身をさらしながらも、ある種の崇高な理念を掲げ続けた巨人であった。 「ダンシング・チャップリン」は彼の偉大さをダンスを通じて再認識させてくれたともいえる。
一方、「ブラック・スワン」はバレエ「白鳥の湖」の上演をめぐって、主役の座に挑む踊り子の物語である。監督は「レスラー」のダーレン・アロノフスキー。ナタリー・ポートマンはこの作品でアカデミー賞の主演女優賞を獲得。ニューヨーク・シティ・バレエ団の協力を得た。
才能もあり、十分美しいニナ(ナタリー・ポートマン)はどこか優等生的なタイプがあり、主役を射止めるための必須条件の黒鳥の表現に未熟さがネックになっている。優美、はかなさの象徴である白鳥に比し、黒鳥は邪悪さ、官能性の象徴であり、両方を演じ分ける力量が求められるのである。つまり人間のもつ善と悪の2面性をリアルに演じきることが要求される。
バレエシーンの重要なところはロングショットはさけて、クローズアップが多用されている。ナタリー・ポートマンがいかにこのために肉体改造し、半年、一年の厳しいレッスンを重ねたとしても絶対に越えられないほど真のバレリーナの地平は高い。よって全身を写すシーンは綿密に編集され、一般の観客の目からはボディダブル(替え玉)のシーンは判別しにくいほどたくみに編集されている。そのことはポートマンにとってはマイナスではない。この映画の骨子は踊り子の内面が崩壊していくというサイコスリラーであり、その過程で表現者としての本質的苦悩を表現するという行為については見事な成果をあげているのだから。
人間のもつ2面性は日常の生活ではおだやかに個々人の内面に存在しており、意思的に抑制されているが、こと芸能や芸術という世界では、人間の奥底をさらけ出すことが作品の要諦であり、善と悪という2面性が絡まりあい、影響しあってその人の表現力となる。時と場合によっては、悪の側面が強く作用するほうが、表現力の達成度が高く、豊穣であると評価される世界である。デモーニッシュな表現力が演者に要求される。
主役の座を射止めたニナが初日を迎えて、次第に幻覚、強迫観念に追い詰められ、現実感覚か崩壊していく様は完全なサイコスリラーである。 二つの作品はともにバレエを扱いながら、私の胸に来たのは、芸術的、芸能的表現者の栄光と悲惨は紙一重という思い事実だ。そして本当に人の心を打つ表現とはどこから来るのか、そしてそれは後天的に獲得できるものなのかということである。 日常的に修練を重ねていくなかで、いつしか次の高みへ上れるのか、それともそうしたものは生まれつき備わったもので、努力ではいかんともしがたいものなのか。こうした問いは永遠のテーマであるが、この二作品を見て同じような感慨にふけったのである。
ニナは黒鳥になれたのか。
チャップリン的資質をもちながら、白鳥的世界と黒鳥的世界を肉体化し、統合した稀有の存在になることは人間としての幸せとは合致しないことも事実だろう。「芸は身を助ける、幸せ、不幸せ」(小沢昭一氏の言葉)・・・なのである。
(追記)蛇足ながら、デモーニッシュな表現力から連想するのは、歌手では美空ひばり、ちあきなおみ、中島みゆき、エディット・ピアフ、ビリー・ホリディか、オペラではデル・モナコ、マリア・カラス、ピアニストではリヒテル、そしてバレエではなんと言ってもヌレエフか。映画監督はフェリーニ、黒沢、俳優では・・・きりがないのでやめる。
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「ダンサー・イン・ザ・ダーク」などで常に問題作を送り続けているデンマーク映画界の巨匠にして鬼才、ラース・フォン・トリファー監督の新作である。2009年カンヌ映画祭でも激しい賛否の渦にさらされたようだ。
幼子をふとした事故で失った妻が陥った重い精神の病をセラピストでもある夫が、自ら治療しようと、山中の一軒家にこもり、妻の再生をはかる。しかし次第に明らかになる事実とともに二人は悲劇的結末(カタストロフィ)へと進んでいく。
①プロローグ②悲嘆③苦痛④絶望⑤3人の乞食⑥エピローグの全6章で構成されるが、プロローグとエンディングで流れるヘンデルのオペラ「リカルド」のアリア「私を泣かせてください」が清澄な曲調だけに、物語の残酷さ、衝撃性、異常性が際立つ。
「アンチクライスト」というタイトルから反宗教性の漂う内容を予想したが、そうした傾向よりはサイコドラマの色彩が強い。反宗教性というとパゾリーニの「奇跡の丘」をすぐ思い浮かべるほどだが、トリファーの場合は己が様々な恐怖症を体験してきた個人的な歴史が色濃く投影された内容である。
パゾリーニはイタリアの地方性、血縁性、郷土性に根付く政治、宗教の呪縛と格闘しながら映画表現の革新性を獲得したが、ついには非業の死を遂げる。
一方トリファーは恐怖症や欝との苦しい闘いのなかから見いだしてきた手法が異常だとして世の常識としばしば対立する。彼の描写の激しさは、北欧の映画や小説にみる道徳の先進性とでもいうべき傾向をしめしているようだ。
これはイタリアと北欧ではキリスト教に対する戒律・姿勢が大きく違うことに一因があるのではないか。そしてトリファーの内面にシャーマニズム・呪術への強い親和性があるような気がしてならない。鹿、トリ、狐などの描写は独特なものだ。
北欧神話の終末観はギリシャ神話が語らない「神々の死」だという。そこには「宗教性」や「倫理性」はなく、あるのは「自然」を見る見方だけで、つまりこの自然世界は「終わる」ということ。
この映画の表現の過激性はこれからも語られようが、そうした表現行為がどこから来るのかを考えるとき、無神論者とされる彼の内面が抱える諸問題と「神々の死」そしてシャーマニズムへの傾斜が複雑にからみあい、攪拌された結果の表現だと解したい。
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見終えてから、ジワーッと静かな余韻に包まれてくる映画だ。そして酷寒の風土と、風雪を越えてそこに生きる人々の呼吸が確かなものとして迫るのである。
中国東北部の北西側、ロシアと国境を接する内モンゴル自治区のマンチョウリー(満洲里)市の炭鉱の町ジャライノールが舞台である。急激な経済的変貌期にある中国では、東北部の辺境の地においても炭鉱は掘りつくされ、近く廃鉱にされる運命にあり、蒸気機関車も役割を終えて消えていかざるを得ない。
「時代との別れ」を描きたかったという監督、趙曄(チャオ・イエ)は30歳前後の若手ながら、風土と人間の関係を深い視野に納める練達の技を見せ、中国映画の底力を示している。
広大な露天鉱と石炭を運び出す蒸気機関車の一体となった風景の美しさは格別で、白黒映画を思わせる陰影豊かな映像は美術的ですらある。チャン・イーモウのデビュー作「紅いコーリャン」をはじめてみたときにも感じたが、中国映画人は荒漠とした大地や酷寒の極限の風土を表現するのが実にうまい。
露天鉱から採掘される石炭を運び出す蒸気機関車の機関手ジュー・ヨウシアンとその助手リー・ジーチョンが主人公の一種のロードムービーである。
定年を1ヶ月残して老機関手は退職することになり、娘夫婦のもとに帰ることになる。老機関手を慕う助手リー・ジーチョンは見送りながら、別れられずにジュー・ヨウシアンの後を追い続ける。老機関手は戻ることを幾度か説得するが、そのたび助手はすり抜けて追うのをやめない。次第に老機関手にも別れがたい感情が湧き出してくる。途中、路上カラオケで2人が歌謡曲を歌うシーンは人の思いの切なさがひしひしと伝わり胸にくる。そして必然的に別れはやってくる。
シンプルなストーリーながら、ふたりのあいだで交わされる一言二言が情感をにじませ、凍てつく風土とそこで働く人々の心模様が冷気を越えて伝わるのである。
俳優はすべて素人というが、老機関手と助手の存在感は体温が伝わるほどで、特に老機関手役はただタバコを吸い続け、セリフも極端に少ないながら、かつてのフランスの名優ジャン・ギャバンを彷彿させる味がある。
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知る人ぞ知る存在の歌手、友川カズキを追った刺激的ながら、覚醒した視線が貫かれているドキュメンタリーである。1974年シングル「上京の状況」でデビュー以来60歳を越える現在まで歌手,詩人、画家、俳優などで多彩で独特の世界を発信し続けている生きた伝説の歌手ともいえる。
その歌は圧倒的な迫力に満ち、秋田の方言を駆使して機関銃のように言葉を連射するステージには誰しも息を呑む。詞(詩)は攻撃的であり、破壊的でありながら、人生の真実を突き、時代につばを吐き、時代を撃ちまくる。強烈な秋田なまりの歌は地を這うように響き、時にははっとする抒情を垣間見せ聞く人の心のひだにしみわたるのである。友川の歌には、他のどんな歌手たちの歌とも決定的に異なる激しい魂の噴出が見られ、それは常軌を逸していると言ってもいいほどだ。
映画は友川や友人たちへのインタビューとステージ、スタジオ演奏で構成されている。 中原中也の詩「骨」から受けた衝撃、弟の自殺による喪失感そして3年ぶりで会う息子との会話、競輪への愛着、都会の町を彷徨する友川の姿などなど。
これらは説明的ではなく、映画全体のリズム感のなかで処理されているので、友川ファンには自明のことながら、一般的には人物関係はわかりにくい。しかしながら歌人 福島泰樹の友川に捧げる詩の朗誦は抒情が横溢する名場面だ。昔見た「短歌絶叫コンサート」の感動がよみがえる。
友川の歌の本質は東北の青森、秋田の文学者、芸能者の血筋を正統に継承するものだ。秋田出身の舞踊家・土方巽、青森出身の太宰治、寺山修司、高橋竹山などに連なる土俗性、無頼性、革新性、漂泊芸などが友川の体内に脈々と流れている。この東北人の地から湧き出でるような表現への希求は東北の土壌を抜きには考えられない。
インタビューで友川は、今の許しがたい時代につばをはき続ける強い意志を示しながら、こうした時代だからこそ、己の歌がありえるという逆説を語るのである。
このことは芸能の本質を示している。時代に祝福される芸能はホンモノではない。時代を撃ちつづける芸能がホンモノだ。こうした意味では友川カズキは中世以来日本列島を闊歩してきた放浪・門付けの芸能者の血脈を正しく継承しながら、埋もれた荒ぶる魂を掘り起こし、現代の闇を逆照射する栄光ある存在なのかもしれない。

映画「海炭市叙景」:底光りのする美しさ

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地方都市の愛しい佇まいとそこに生きる人びとの息吹をケレン味なく描き、見るものに様々な感懐を抱かせる佳作である。ひりひりするような矛盾に満ちた現実に遭遇しながら、その土地で生きていく人々を暗く、静かな情熱で寄り添う不思議なムードが横溢している。監督は「ノン子36歳(家事手伝い)」(「映画芸術」誌2008年度日本映画ベストワン)などの熊切和嘉。
90年に自殺した函館出身の小説家・佐藤泰志の未完の連作短編小説『海炭市叙景』が原作で、18の短編小説から5つを選び脚色した。(脚本:宇治川隆史)函館をモデルにした架空都市"海炭市"が舞台である。
造船所をリストラされる兄とその妹、地域開発のために立ち退きを迫られる猫と生活する老女、プラネタリウムで働く49歳の男と夜の仕事の妻のすれ違い、ガス店を営む男と連れ子につらく当たる妻の暴力の連鎖、路面電車の運転手と心が通わない息子の帰省などの5つの話がオムニバス風に描かれる。
どこにでもあるような暗く、救いがない話の連鎖でありながら、終始2時間半見入ってしまった。北海道の港町の冬の風景が寒々しくも、底光りして美しい。しかもカメラの眼が、そのなかからも微温を感じ取る感性を持っているのが救いだ。特に路面電車のシーンの美しさは忘れがたい。寒地の冷気をも温める地熱が漂うかのような町の風情がこの作品を奥行きのあるものにしている。誰しも自分の故郷の風景を思い起こし、思いにとらわれてしまうような気持ちにさせる画面だ。音楽(ジム・オルーク)も抑制をたたえた抒情がある。
俳優も実力派、素人が交じり合い、不思議な調和と実在感を浮かび上がらせている。特に加瀬亮がいい。存在感があるような、ないような不思議な役者だ。内に秘めたマグマを垣間見せる雰囲気がいい。猫好きの老女、中里あきもいい味だ。
日本の地方都市の現況を描いた「海炭市叙景」は「ヘブンズストーリー」と並んで確実に日本列島の今を鮮烈に描出した。
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現代日本の有り様を神話のごとく表現した堂々たる映画の登場である。日本列島に繰り広げられている幾多の無残な殺人事件をニュースで知り、その不条理さに戸惑いする日々を送りながら、日常性に埋没せざるを得ない我々に突きつけられた物語である。
 両親と姉を殺された少女。行きずりに出会った女性とその子を殺した少年。少年への復讐を誓う夫。復讐代行屋をアルバイトにする警察官。若年性アルツハイマーの人形作家・・・・。約20人の人物が列島の風土に生きる10年間の軌跡を描いている。
それぞれが重い運命を背負いながら、のたうつように生きているが、希望のもてる解決策は見つからない。それは人を殺すという罪に関わる運命だから。
 この映画の弱点を指摘して、否定するのは簡単だ。ストーリー展開の唐突さに戸惑いながら、全編を覆うまとわり付くような陰鬱な空気はみるものに腰を引かせるのに十分だ。
だがこの映画のテーマの構えは凡百の日本映画を遥かに超えるスケール感に満ちている。現実に起こった事件から喚起されながら、人間の「罪と罰」の問題にケレン味なく、正面から向かい、曼荼羅のごとき連環した人間模様をつむぎ出すことに成功したのである。4時間38分の長尺を忘れさせる緊迫感に満ちた展開だ。
朽ち果て廃墟になった山中の団地群、渡し舟のある団地、海鳥のいる海、桜咲く光景、横殴りの吹雪、病棟、アパート等々の舞台は今の日本人の心象風景のように寂寞としながらも、懐かしさを伴い、過ぎ去った風景を思い起こさせる。風土とともに人間が親和的に生きていた時代もあったことをしのばせる。特に、廃墟となった団地の風景は胸をつく映像だ。
 出演者は皆、良かったが、人形作家の山崎ハコの存在感が他を圧する。彼女が画面に出てきてからは、その深いまなざしと明晰に通る声で一気に物語の中心に躍り出て、彼女から目が離せなくなった。彼女の表情がすべての登場人物の思いを凝縮しているようにも感じられるほどだ。歌手としての山崎ハコからは、想像できなかった大変身の姿だ。セリフも俳優術の臭みがなく、真実味にあふれ、無言の表情が不可思議な味わいをたたえている。
 結末は暗示的でもなければ、希望的でもない。永遠に続いていく人間の業を見つめていくだけだという透徹した覚悟が垣間見えるのである。世界を、人間を総合的に捉えたい、描きたいという監督、瀬々敬久の姿勢がいさぎよい。
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原作は世界40カ国で2600万部売れたというスウェーデン・ミステリーの大ベストセラー、全3巻の長編である。読んだときから映画に向いた素材だと思ったが、早速映画化された。「ミレニアム1 ドラゴン・タトゥーの女」(153分)、「ミレニアム2 火と戯れる女」(130分)、「ミレニアム3  眠れる女と狂信の騎士」(147分)、全部見ると7時間余の大作である。あらすじの要点は
「ドラゴン・タトゥーの女」:40年前孤島で忽然と姿を消した名門企業のオーナー一族の少女の行方を巡って、名門一族の忌まわしい過去の事実があばかれていく。「ミレニアム」という雑誌のやり手編集長ミカエルと天才ハッカー、リスベットが共同して、少女失踪の謎の解明に取り組むなかから、戦中、戦後の闇が浮かび上がる。
 「火と戯れる女」「眠れる女と狂信の騎士」:少女売春組織の解明に迫るジャーナリストが殺害され、その犯人に女主人公リスベットが指名手配される。その無実を証明すべく一連の取材に執念を燃やすジャーナリスト、ミカエルたちが闇の組織の実態を追求していく。その過程でリスベットの衝撃的な過去が次々と明かされていく。そしてすべてが明かされる法廷劇へ。
 スウェーデンの現代社会を通して、名門企業家一族の闇、旧ソビエトのスパイたちの暗躍、少女売春に関わる公安組織の腐敗、家庭内DVなどをおりまぜながら、雑誌「ミレニアム」を舞台に展開するミステリーである。
最近これほど映画本来の楽しさにひたれた映画も珍しい。原作ものを映画化したものをみる場合、原作との落差と違和感に失望する場合が多いが、「ミレニアム」は原作を読んでいても、いなくても、そのどちらも満足させる良質のエンタテインメントになっている。 この映画の成功の第一の要点は、女主人公リスベットという一筋縄ではいかない複雑な内面を抱えながら不思議な魅力をもつ女性の造型に成功したことに尽きる。
150センチ、40キロの華奢な体で、その背中には大きく彫られたタトゥー、鼻にピアス、ソフトモヒカンの髪といういでたちで誰にも媚びず、ことばもほとんど発せず、射るようなまなざしで相手を見据える。一方、頭脳は明晰で、記憶力は抜群の天才ハッカー調査員でもある。過去の苛酷な体験からのトラウマをしのばせる凍てついた表情から時にもれるピュアーな感情の発露が彼女の正体を捉えがたい複雑なものにしている。
加えて格闘技に秀でており、大男たちとの熾烈な格闘も辞さない超人的な女性である。 リスベットを演じるノオミ・ラパスが強烈な個性をもつ人物像を好演している。
次いで複雑なストーリーを分かりやすく、手際よく処理したシナリオ、演出の冴えが出色だ。短いカット、ショットをテンポよく重ねながら引き締まったストーリー展開に持ち込む編集の勝利、プロの技だ。
カメラもストックホルムの陰影に富む街の表情を適確に切り取り、北欧の風土に生きている人間の実在感を浮かび上がらせている。
 この映画の描写にはかなりハードな内容があるが、見た後に残る後味はすっきりしている。
 映画の底流に、社会の標準的な価値判断や評価からは、はみ出した生き方をする(せざるを得ない)者と微妙な間合いながら共鳴する意志が流れているからであろう。 正統的で、マッチョなハリウッド的なヒロイン、ヒーロー像がはばをきかす映画界で、この映画の姿勢は異端だが、懐の深い社会をよしとする現実認識はハリウッド映画にはないものだ。
そのハリウッドが映画化権を買って、アメリカ版を作るらしい。己のオリジナリティー欠如を棚に上げて、札束で企画を買いあさる鈍感なハリウッドが毒にも薬にもならない活劇映画をつくるのが目に浮かぶ。
 この巨大なミステリーの作者スティーグ・ラーソンは処女作、ミレニアムシリーズの大成功を見ることなく2004年に50歳で逝去した。
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 カナダ、モントリオールの英字紙<ガゼット>2010年5月7日付け。
トニー・ガトリフ監督の最新作「自由(原題:Korkoro/仏語題:Liberte)」は野心作である。アルジェリア出身でフランスを拠点に活動するガトリフ監督は、仕事の大半を世界のジプシーたちの文化や歴史を描くことに捧げてきた。この意味で最も有名な作品は1993年の「ラッチョ・ドローム」である。最新作である本作では、彼らの歴史の最も暗い部分を描こうとしている。
 この美しくも感動的な作品の最後に流れるテロップで、ガトリフ監督は風化してしまいがちな悲劇を観客に突きつける。第二次世界大戦中ヨーロッパにいたおよそ二百万のジプシーのうち25万から50万人がナチスによって強制収容所で虐殺された、という事実である。この数字が物語る惨事こそが監督を奮い立たせた。暗澹たる状況を単に重苦しさだけではなく映画にすることはたやすいことではない。この作品が成功しているのは、ガトリフ監督が暗闇のなかに喜び、躍動感に満ちた物語を作り出そうとした点だ。そしてこれが映画の最後で、それでもへこたれないコミュニティへの賛辞となっている。
 ガトリフ監督が、フランスのヴィシー政権がゲシュタポのロマ、ジプシー一斉検挙に協力していた事実を正面から取り上げている点も見逃せない。ジプシーを積極的に助けようとするフランス人の男女二人が主役だが、映画は同時に多くのフランス人憲兵がドイツ人のために汚れ仕事するのをいとわなかったことも描いている。これは力強い映画であり、去年のモントリオール世界映画祭で観客賞、エキュメニカル審査員特別表彰と併せて、最優秀作品賞を獲得したのもうなずける。
 1943年、フランスの田舎での実際の生活をもとに描かれる本作は、村にジプシーの一団が到着するところから始まる。村長と獣医のテオドア、そして町からきた学校教師マドモワゼル・ルンディは一生懸命この新参の訪問者を助けようとする。警察に捕まらないために必要な手続きをしたり、ルンディの場合は子供たちが学校に通えるようにしたりした。孤児のクラウドは、新参者の風変わりな風俗習慣に魅せられ、ジプシーの家族の一員になりたがる。中でもまぬけでいかれたバイオリン弾きのタローシェと仲良しになる。しばらくの間、ジプシーの一家はテオドアとマドモワゼル・ルンディのお陰でこの危うい状況の中でも生き延びることができた。しかし、フランスとドイツの当局は引き締めを強化し、もうこれ以上ジプシー一家が平和に暮らすのを手伝うわけにはいかないことは誰の目にも明らかだった。
 この映画は一人の主役によるのではなく三人の秀逸な役者によるアンサンブルキャストになっている。ガトリフの映画にはつきものの陽気なジプシー音楽が全編にあふれ、日常生活の細部やニュアンスを巧みに描き出している。
ただ、映画祭で賞をも獲得したこの映画がただの一館でしか上映されないのは悲しむべきことだ。英語字幕版さえ作られていない。
さて、本作は、IMDB(Internet Movie Database)で調べると、カナダ、フランス、スイス以外ではオーストラリア、トルコの映画祭でしか上映されていない。日本ではどうだろうか。上映が叶うことを願うばかりだが、一方で今日厳しさを増す独立系の外国映画の配給事情を考慮すれば、無責任な期待論だけを述べるわけにはいかない。(市橋雄二)
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日本列島に日々繰り返されている重く逃れられない現実に思いをめぐらさざるを得ない映画であり、小林政広監督の熟した人間観察眼が際立つ傑作である。
かつてニシン漁でわいた北海道の増毛もいまやその面影もない。老漁師,忠男(仲代達也)と孫娘、春(徳永えり)と2人きりでのつましい生活をしてきた。春は地元の小学校の給食係りで足の悪い忠男を支えてきたが、廃校で失職。行き詰まった2人。そこで孫娘を都会で自立させるには老漁師は己の身の処し方を決めねばならない。
普段、縁遠くなっている兄弟たちを訪ねて自分を引き取ってくれないかと頼み込む旅に出る。これはロードムービーには違いないが、旅に出る爽快感、疾走感、自由への思いといったものはかけらもない。あるのはどんよりとした重い列島の風景であり、身にまとわりつくような疲労感である。普通にある自然や街を切り取るカメラ(高間賢治)の視野は広く深く、日本列島の今の風景に日本人の心象を痛切に投影した。
気仙沼に住む兄夫婦(大滝秀治、菅井きん)、服役中の弟の内縁の妻(田中裕子)、鳴子で温泉旅館のおかみをする姉(淡島千影)、仙台で不動産業に行き詰った弟(柄本明)とその妻(美保純)・・・・らを次々と訪ね、援助を請うが現実の厳しさが2人に重くのしかかるつらい旅である。
訪ね行く先々で交わされる兄弟同士の会話がこの映画の骨子である。そこには、これまで歩んできた各人の人生を垣間見せる瞬間がたびたびあり、内には互いを思いやる心を宿しながら、相手に寄り添えない現実に懊悩している姿が鮮明に浮かび上がる。セリフの裏側を伝える練達の俳優たちの成果だろう。血も涙もある市井の人の真実を演じ切って見事である。
祖父と兄弟たちとの再会の場に立ち会い続けた春は長く離別していた父親(香川照之)に会いに行く。北海道の静内で牧場をする父との再会とそこで後妻(戸田菜穂)からかけられる意外なことばに忠男は泣く。そしてラストへ。
全編、出口がない現実に翻弄される老人と孫娘の物語のなかで唯一の希望は孫娘,春の存在だ。旅を重ねるなかで、徐々にわがままな老人にたいして主導権をにぎりだし、毅然と振る舞うようになる。徳永えりの強い意志のあらわれたまなざしがいい。仲代達也は堂々とした風体、大きな目、声が普通の日本人からは離れているので、最初は気になったが、見ているうちにやや大げささが逆に滑稽味と感じられ、次第に老漁師に感情移入している自分に気づくほどだった。仲代達也が俳優として築き上げてきたものの大きさにふれた思いであった。

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韓国からまた素晴らしい才能が噴出した。エリートコース出身の映画青年では表現できない八方破れのエネルギーに満ちた映画作家、ヤン・イクチュンの鮮烈な出現である。
『息もできない』の主人公サンフン(ヤン・イクチュン)は借金の取り立て屋。 幼い頃、父親のDVが原因で妹と母親を失っているサンフンにとっては、気に触るものがあれば殴り、聞くに堪えない罵声を浴びせ、つばを吐き始終タバコをすい続ける。めっぽう喧嘩が強く、どこから見ても最悪のワルである。刑務所から出所してきた父親を毎晩、殴り、蹴飛ばすのが日常化しているようだ。
一方、サンフンから通りすがりにつばを吐きかけられた縁で彼と付き合い始めた女子高生ヨニ(キム・コッピ)も家庭崩壊の真っ只中にいる。
彼女の父親はベトナム戦争(65~75年)に従軍し、その苛酷な体験からか記憶障害で廃人同様になり家にこもる。死んでいる妻のことをまだ生きていると思いこみ、口癖のように娘に無理難題を吐き出す。
ベトナム戦争後、ソウル五輪(88年)を経て、表面的にはこぎれいな町に変貌した"タルトンネ(月の街)"と呼ばれるソウルの丘陵地帯に広がる元貧民街の住民たちの家庭が抱える家庭崩壊の現実を背景にバイオレンスに満ちた物語はいつしか青春映画の抒情性をおび始めるのだ。
サンフンは自殺を図った父親を病院に運び、自分の血を全部輸血してでも、生きさせると叫ぶ。自分の感情の噴出に戸惑いながらも、必死の出口を求め、その晩にヨニを漢江に呼び出し、ビールを飲む。ヨニに膝枕しながら、いつしか嗚咽がサンフンから漏れ出し、ヨニもその切なさにしのび泣く。抑制された抒情が端然と湧き上がる。韓国映画史上に残る一種のラブシーンになるだろう。
映画は最後に救いのない結末を用意しているが、暗然とした表情のなかにもきりりとしたヨニのまなざしから希望を感じ取れないこともない。
手持ちカメラを駆使しながら、極力、リハーサルなし、リテイクなしの撮影がぎりぎりの緊迫感を生み、暗い現実に向き合いながらも魂を浄化してくれる傑作である。
監督・脚本・製作:ヤン・イクチュン  編集:イ・ヨンジュン、ヤン・イクチュン  撮影:ユン・チョンホ  美術:ホン・ジ 録音:ヤン・ヒョンチョル 音楽:インビジブル・フィッシュ
出演:ヤン・イクチュン、キム・コッピ、イ・ファン
第10回東京フィルメックス 最優秀作品賞&観客賞ダブル受賞。

「七人の侍」~映像ダイナミズムの極致

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黒沢明の生誕100周年記念と銘打ち、3月末から3週間にわたり、30作品が日比谷シャンテで上映された。黒澤作品のほとんどは、数回以上見ているが、「七人の侍」は中でも突出した回数で、学生時代以降、今日に至るまで、節目節目でその奇跡のような完成度を目の当たりにしてきた。これまで見てきたおびただしい古今東西の名作映画のなかから1作だけを選ぶとしたら「七人の侍」をあげざるを得ない。未見の若い人々には是非みて欲しい。必ず、自信が生まれ、何故か崇高な気分になる-――そうした映画である。
   戦国時代の野武士の跋扈に悩むある農村の村人たちが侍を雇い、野武士集団と死闘のすえ勝利するまでの物語である。野武士の騎馬団が山の稜線に登場するシーンからカメラがパンして村の全景のロングショットに至る導入部から一気に劇的世界に引きずり込まれていく。
村の苦悩・困惑、浪人侍探し、7人の侍たちの集結、決戦に向けての村人たちの訓練風景、村の要塞化、若侍、岡本勝四郎(木村功)と村の女,志乃(津島恵子)との恋、農民、利吉(土屋嘉雄)の妻(島崎雪子)を野武士に奪われた恨み等々のエピソードが織り込まれながら、物語は進行する。
7人の侍の造形がくっきりと切り立ち、黒沢明が思う男の理想像がそれぞれに振り分けられている。
・戦略家の島田勘兵衛(志村喬)の統率力・洞察力。
・参謀役の片山五郎兵衛(稲葉義男)の物静かで茫漠とした風格。
・七郎次(加藤大介)の忠誠心。
・林田平八(千秋実)の明るさ、軽妙さ。
・久蔵(宮口精二)の無口、練達、孤独。
・岡本勝四郎(木村功)の若々しい憧れのこころ。
・菊千代(三船敏郎)の野生、豪胆。
これらの人間像の要素を巧みに血肉化した七人の侍役の俳優陣がなんといってもこの映画の魅力だ。志村喬は存在感・信頼感が圧倒的であり、セリフが素晴らしい。久蔵役の宮口精二は最高のはまり役で、役者冥利に尽きる役どころ。菊千代の三船敏郎の破天荒でエクセントリックな演技とその野生美は黒沢の想定を越えるものだったろう。
印象的なシーン。子供を人質にとり立てこもった男(東野英治郎)を島田勘兵衛(志村喬)が討ち取るシーン。討たれて小屋からでてきた男が倒れるまでをスローモーション処理し、見守る村人たちの唖然とするリアクションの対比の妙。黒沢独特の手法。 こうした緊迫シーンにおけるスローモーションと見る側のリアクション(望遠レンズ)の対比が最も成功したシーンが久蔵(宮口精二)の空き地での真剣の決闘シーンで、勘兵衛と勝四郎などが見守るなかで急蔵の凄腕を強く印象つける。この手法は後年、「椿三十郎」の壮絶なラストシーンでも再現され、血潮の噴出という要素が加わりより衝撃度を増している。
さらに特筆すべきは馬の登場であり、これほど馬を集団で上手く使った日本映画はない。馬の登場で画面のダイナムズムが一気に増幅する。
  そしてラストの伝説的な雨中の決戦。40名の野武士たちを少しずつ討ち取りながら、最後に13人の野武士騎馬集団を村にいれての雨中の死闘、激闘。竹やりの農民たち、侍たちと野武士騎馬団の凄絶な決闘シーン。馬のひずめの音と、農民たちの叫び声。落馬する野武士たち。黒沢映画のモンタージュの精華であり、勝利である。息をするのが苦しくなるほどの迫真のシーンの連続。
忘れなれないメインテーマをはじめとする各シーンのテーマ音楽。男声合唱による農民の苦悩、フルートとハープによる勝四郎と志乃の登場、侍たち、農民の疾走シーンにはトランペットのメインターマ―――早坂文雄の仕事は不滅だ。
脚本(黒沢明、橋本忍、小国英雄)の完成度。撮影(中井朝一)のマルチカメラ撮影による決戦シーンをはじめとする映像ダイナミズムの成果、勝四郎と志乃がはじめて出会うシーンで一面に生える野花の描写から漂う抒情。
今回、劇場でみたかったのも、この映画は観客とともに感情を共有しうる稀有の作品だからである。1954年に公開されてから50年余、未だにこれを越える映画作りは想像できない。それほど、苦難にみちた撮影だったらしい。黒沢の体中にたぎっていた情熱がほとばしるように噴出した「七人の侍」は2010年の今も新しい驚きである。 ラストシーンのメインテーマが流れ「終」のエンドタイトルがでると、さざなみのように拍手が徐々に場内を満たしていったのであった。
時空を越えた至高の地点に立つべき名編である。  

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ポーランドの映画監督の巨匠アンジェイ・ワイダの「カチンの森」を見たのは昨年秋ころの試写だった。ワイダの「灰とダイヤモンド」(1958)に衝撃を受けた世代として、ワイダを黒澤明、ベルイマン、フェリーニらと並ぶ巨人として評価してきたものには「カチンの森」は映画的興奮に富んだものではなく、見るのがつらい映画だった。むしろ、史実としてカチンの虐殺の真相を知りたいという気持ちのほうが勝ってしまい、映画としての判断をしにくい内容だった。
 第2次世界大戦中の1940年、数万人のポーランド将校ら2万人余の捕虜がソ連軍によって銃殺され埋められるという悲劇は長年、歴史の表面から埋もれてきたが、ゴルバチョフ時代になって、1990年にソ連が公式に認めた事件である。
ワイダ監督も父親がその犠牲者だったことを近年になって知り,映画化を目指したという。 映画「カチンの森」は抑制のきいた演出でありながら、この歴史的虐殺事件を検証するように展開するが、全体として陰鬱なトーンが支配し、見ていてつらくなる。ワイダ監督がこの映画を撮ろうとする使命感が感じられ、映画的な興奮や感動に浸るのではなく、ひたすら悲劇的な結末に向かっていくのを見届けるつらい作業を体験することになる。
「灰とダイヤモンド」に見られた、時代の波と苦闘する主人公のテロリスト、マーチェクをはじめとする登場人物の生生しい存在感が「カチンの森」からは消えている。何故か。将来に不安を抱えていたであろう、30歳そこそこのワイダのまなざしと80歳を越え、巨匠として功なり名を遂げたワイダのまなざしは確実に変貌した。このことはワイダの責任ではなく、芸術家の必然である。映画的(芸術)成熟は必ずしも映画的(芸術)感動とは連動しないパラドックスが存在するのである。
今回起きたポーランド大統領専用機墜落事件を聞いたとき、もしかしてワイダ監督が同乗してるのかと懸念した。以前の新聞で慰霊式に招待されているという記事を読んだ記憶があったからだ。しかし、ロシア主催での慰霊式がプーチン首相、ポーランド、トゥスク首相出席で4月7日に行われており、今回、カチンスキー大統領はポーランド主催の犠牲者追悼式が10日に行われる予定だったようだ。ワイダ監督は多分7日に出席しているのか。「カチンの森」はまたしてもポーランド国民に苛酷な記憶を刻みつけた。カチンの犠牲者の霊魂は歴史的事実の忘却を許さないというメッセージか。

単細胞戦争映画「ハートロッカー」

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「ハートロッカー」が今年のアカデミー賞を取ったと言うので見に行った。イラク、バグダッドでの爆薬処理を任務とする部隊をドキュメンタリー風に描いている。スリルとサスペンスだけは十分だが、この映画はひど過ぎる。この中には、戦争というもの、イラク戦争というものへの見方が一切ない。批評眼とは言わないまでも、なぜ、イラクを舞台にしたのかその理由が分からない。単なるスリル満点映画をめざすのだったら、架空の舞台でも設定すればいいのだ。アメリカ兵の悩みらしきものを、殊勝に描きながら、登場するイラク人は単なる悪役、気味悪いイスラム人として描かれる。この映画を、イラクの人々が見たら、なんというか。 これでは、昔の西部劇と同じだ。ネイティブアメリカンをインディアンとして悪役に仕立て上げ、それを征伐するガンアクションと同線上にある。こんな単細胞映画がアカデミー賞とはあきれてものも言えない。病んでいるとしかいえないアメリカ映画産業である。

仏映画「パリ20区、僕たちのクラス」

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第61回カンヌ国際映画祭でパルムドール(最高賞)を受賞した話題の作品。舞台は、パリ20区にある中学校のひとつのクラスで、主な登場人物は、出身国も生い立ちも、人種・民族も異なる24人の生徒(14~5才くらいか)たちと、フランソワという国語(フランス語)教師である。
ほとんどのシーンは教室と職員室に限られ、一見、ドキュメンタリーではないかと思うくらい、真実味、緊迫感がみなぎる話が展開してゆく。それはなんといっても教師・フランソワと24人の生徒たちとのあいだで交わされるコミュニケーションから生ずる生々しい臨場感・真実味に由来する。
人が人を教える(教育)とはどういうことなのか、人類は人種・民族のあいだの貧困、差異や偏見を乗り越えて共生できるのか、ことばで自分を表現し相手を説得することにより、生きていくことの苛酷さ、これらはいずれも現代世界が抱える解決困難な社会矛盾であるが、このクラスは世界の矛盾をそのまま鏡のように写し出す縮図である。 
教師と生徒そして生徒同士の対話からさまざまなことを次から次へと想起させられる。 まず、子供たちの存在が素晴らしく、この映画の価値を高めている。既成のプロの俳優たちが顔色を失うほどの自然な振る舞い(演技)は、綿密に組み立てられた撮影前のワークショップにあるようだ。リハーサルは子供たちの個性を巧みに引き出す意図の元に綿密に重ねられ、構成も緻密でカメラワークなども適確である。アフリカや中国から移住してきた子供たちはクラスでも多くの割合を占めながらも、フランス語には悪戦苦闘している。だが、自分のことばを必死でさぐりながらフランソワ教師と繰り広げるスリルに満ちたことばのバトルがこの作品の価値だ。  
この映画のふところの深いところは、希望の乏しい未来に生きる子供たちにたいして、予定調和的な結末を用意せずに、違いを超えて共存していく社会の苦い現実を突きつけているところだ。 そして教育への希望を抱かせるシーンは重要なメッセージをはらんでいる。1年間学ぶことを拒否してきた少女がプラトンを読むことによって、ソクラテスの対話法に感動したと語るシーンである。そこから、われわれはある希望を感じ取り、彼女の覚醒する魂を感じ、なんらかの教育にたいする希望を感じずにはいられない。こころを打つシーンだ。 
虚実皮膜とは事実と虚構の中間に芸術の真実があるという近松門左衛門のことばだが、この作品もそのことばの意味を思い起こさせる。
ドキュメンタリー映画をみる要諦は、映像に移っていない裏側の部分をいかにイメージできるかである。すぐれたドキュメンタリー映画ほど、カメラに写し出せない部分、氷山の海面下の部分にこそ巨大な真実が存在することを教えてくれる。 そしてすぐれた虚構の積み重ねであるドラマは真実らしさを徹底的に追求していく中で、突然訪れてくる現実を止揚する映画空間を我々に見せてくれる。 ローラン・カンテ(監督・脚本) フランソワ・ベゴドー(原作・出演) 2010年6月12日から 岩波ホール。 

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「さらば、わが愛/覇王別姫」

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久しぶりに「さらば、わが愛/覇王別記」を見る機会があった。10数年前に見たときには中国の古典芸能の奥深さや京劇の世界に圧倒されたのを覚えている。
日中戦争、文化大革命の激動期に生きた京劇俳優の程蝶衣(張国栄―レスリー・チャン)と段小楼(張豊毅―チャン・フォンイー)の物語である。女形の程蝶衣は段小楼に同性愛的な愛情を抱き、そのふたりの関係を主軸に物語りが進行する。 2人は「覇王別姫」の役者として成功するが、彼らの人生も互いの愛憎を交えつつ日中戦争、文化大革命などの巨大な波に覆われる。
歴史と人間の運命という大きなテーマにまともに向かい合う中国映画の底力に改めて感服するが3時間に及ぶ長さを全く感じさせない演出力(監督:陳凱歌)も尋常ではない。 子供時代の訓練風景が興味深い。徹底的で不条理な体罰訓練で芸を体にしみこませる過程がかなり念入りに描かれる。芸能の肉体化とでもいうのか。これが中国雑技団にまでも伝わる伝統かと思わせるほどだ。 そして京劇俳優、なかでも女形に焦点を当てたところが新鮮だ。女形役者が性差のはざまを行き来しながら、実像と虚像の落差に翻弄される様をレスリー・チャンがもののみごとに演じている。
現実世界では2003年に自死したレスリー・チャンの人生が重なるようだ。彼なくしてはありえなかった映画だろう。
 この映画のもうひとつの見所は全編に漂う脂粉の香りだ。普通の人間が入れない役者の楽屋に漂う隠微で、酔わせる香りがなんとも悩ましく魅力的だ。女形役者が発する気配は現実世界がいかに厳しくとも観客を一時至福の世界(ハレの世界)へと誘ってくれる媚薬なのだろう。中国現代史の一面が醜悪で苛酷であればあるほど、そこに咲いた花は美しいのだ。 
今回改めて興味深かったことは中国社会においても芸能の血筋にたいしてひとびとが抱く畏敬と蔑視の2重性がよく分かったことだった。古典芸能としての京劇が、日本の歌舞伎と同様、大道芸から育ってきたことをよく実感させてくれた。 「さらば、わが愛/覇王別記」は張芸謀の「紅いコーリャン」と並んで私の中では中国映画の古典である。

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昇華された悲劇―韓国映画「母なる証明」

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韓国映画が発する独特な激情のエネルギーが時には胸につかえたり、胃にこたえたりすることもある。しかしながら、韓国映画からしばらく遠ざかり、日本映画やヨーロッパ映画を見続けると、抑制され洗練された映画的表現に感心しながらも、全体としては枠にはまった思考やそこで物思う悩める群像が抱える袋小路を感じてやがて、物足りなり、八方破れのエネルギーが恋しくなり韓国映画をみたくなるのである。 こうしたエネルギーと振幅の巾の大きい感情表現は日本映画には特に近年見られない種類のものだ。
久しぶりに見た韓国映画「母なる証明」(ボン・ジュノ監督)にはやはり感服した。 強い愛情で結ばれた母親と1人息子をキム・ヘジャとウォンビンが演じる。 
1人息子が少女惨殺事件の容疑者として逮捕される。母親は彼の無実を証明すべく、立ち上がり、過剰な愛情をエネルギーにするかのように、必死に息子を助けようとする。そこには強烈すぎる行動、常軌を逸した行動が起こる。 
「母親」の強さ、愛情の深さを描きながらも、人間存在の根源への疑義までをうかがわせる奥深いテーマが見えてくるのである。 サスペンスを湛えながら、物語は意外な展開をみせながら、衝撃的なラストへとなだれ込んでいく。 
私が特に注目し、感じ入ったのは導入シーンの母の踊りとエンディングのバス中での踊りのシーンの相関関係だった。 太鼓の音をきっかけに母が踊りだす導入部のシーンには物語全体を暗示するような意味あいが強く示唆され、思わず引き込まれたが映像表現としてもすばらしい。韓国の伝統的芸能で民族の基層文化ともいうべきパンソリを思わせる母親の踊りからは、すべての情念を越えて解放されていく人間の運命に思いを託す監督の明白な意図を感じたのである。 そしてラストシーンも絶望の極地にも救いを見出す意味で、ファースト・シーンに呼応している。 これらの踊りのシーンの存在が、人間の業、宿命を描いた救いのない物語を悲劇として昇華できたのだろう。 画面の隅々からマグマがふつふつと噴出するように感じる韓国映画が世界の映画界で独自の位置をしめる所以だろう。 

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アメリカ産の音楽ドキュメンタリーの傑作としては「真夏の夜のジャズ」、「エルビス・オン・ステージ」そして近年の「ボブ・ディラン ノー・ディレクション・ホーム」などがすぐ浮かぶが、「マイケル・ジャクソン THIS IS IT」はアメリカンポップカルチャーの到達点として記録されるべき作品だろう。
なによりもMJの豊かな才能に驚く。私はMJに特別の関心をもつものではないが、このドキュメンタリーで彼の卓越した才能が非常に分かりやすい形で提供され、虚飾に彩られてきたMJのアーチストとしての実像があきらかになったことは喜ばしい。不幸な最期がなければ、おそらくオープンにならなかったリハーサル映像であるがゆえに、明かされたMJの真実は胸を打つ。
ロンドン公演に向けて、練り上げられていくステージ。何日にもわたり撮影されたひとつの楽曲がMJの適確で詳細な指示・修正を加えられて完成していく。そうした細かい描写の積み重ねがMJの湧き出すかのような豊かな感性を実感させる。醒めた冷静さから瞬時に熱狂へと転換するギヤ・チェンジの鮮やかさがカタルシスを生みだす。
もちろんそこには、迫真性と革新性にあふれたダンスの身体運動が中心となり、分厚いダンサーたちの力量とステージシンガー、バックミュージシャンたちが一体感を醸成する。
アメリカのポップカルチャーを支える層のとてつもない厚さを納得させられるドキュメンタリーである。

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この映画はジャームッシュを知らないものにとっては茫然自失、入場料返して・・という類の映画かもしれない。それほど徹底的な説明不足、劇的クライマックス皆無等々およそ普通の映画つくりの常識的文法を無視した映画つくりである。
ところが、ジャームッシュの過去の映画に慣れ親しんできたものにとっては、ジャームッシュ健在なりを確信させた作品だろう。
"孤独な男"というコードネームの殺し屋が、ある任務を遂行するためにスペイン中をさまよう。その任務とは「自分こそ偉大だと思う男を葬れ」というもの。そんな彼の前にさまざまな仲間たちが現れて、一様に謎めいた言葉を残していく。そして任務は実行される。その間、登場人物や背景への一切の説明はなく、奇妙な静けさを伴った緊迫感が漂う。こうした味わいがジャームッシュの独自性だろう。
通常の批評をしてもあまり意味がないと思われるので、以下、箇条書き風に気がついたことを連ねよう。
① 小津安二郎の映画にある反復性と非ドラマ性(とにかく盛り上がらない)。ジャームッシュは小津映画に親しんできたらしいから、画面から受けるリズミックな反復性は興味深い。起床後の太極拳風なもの、眠りに入る行為、カフェで注文する2杯のコーヒー等々反復の日常。
② 小津映画にはない暗示性・イメージの飛躍がある。
③ 映画全体が寓話とも解釈可能。
④ 質感たっぷりな自然描写―スペイン独特の乾いた風土・薄汚れた街並みが素晴らしい ⑤ この映画のもうひとつの見せ場とも言える撮影監督クリストファー・ドイルの起用。ウォン・カーウァイ監督の「欲望の翼」「恋する惑星」「花様年華」などでドイルの映像に接してきたものにとってはジャームッシュとのコラボは最高の贈り物だろう。結果はドイルの融通無碍な才能を証明するものだ。
⑥ フラメンコを上手く使っている。全編、無表情の主人公が一瞬、表情がゆるむのがこのシーンだけというのがおもしろい。画面に湿気が漂う唯一のシーン。
⑦ そして日本の異色ロックバンド BORISが参加していることも注目。
「リミッツ・オブ・コントロール」の 公式サイト

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 ■2009.7.31  自伝的回想風ドキュメンタリー「アニエスの浜辺」

 

 

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●フランスの女流監督アニエス・ヴァルダ。1954年デビュー以来55年間にわたり作品を作り続けてきたヴァルダの新作ドキュメンタリー「アニエスの浜辺」は、自伝的回想風ドキュメンタリーであり、私「映画」とでもいうべき個人的感懐に満ち満ちた彼女の人生論でもある。
まもなく81歳になるヴァルダの映画人生にかかわった人物群は多彩だ。ヌーヴェル・ヴァーグの旗手たちのジャン=リュック・ゴダール、アラン・レネ、ジャック・ドゥミたちとの公私にわたる交流そして俳優のジェラール・フィリップ、ミシェル・ピコリ、カトリーネ・ドヌーブなどとの若かりしころの姿がつぎつぎと現れ、なつかしさと時間の経過への感懐を抱かせる。
ヴァルダ自身の出演とナレーションとともに、再現ドラマ、「5時から7時までのクレオ」など数々の自作、思い出の地への再訪、なつかしい人物との再会などのシーンがめまぐるしいほどのテンポでつぎつぎに展開していく。
1960年代ヌーベル・ヴァーグは日本でも映画の枠を超えて文明・文化論の重要なテーマだったし、フランス思潮はサルトル、ボーヴォワール、カミュなどを通して圧倒的な影響力を若者に与えていた。その当時のフランス映画やフランス思想家にたいする関心の高さは今では想像できないほどだった。そのころの空気を知る世代のものにとっては、なんとも懐かしい名前や作品が並ぶのだが、今の若い人にとってはどのように写るのだろう。
次々と展開するシーンはどれもヴァルダにとっては、忘れられぬ人生の場面なのだろうが、いずれのカットも思いを振り切るかのように極めて短く処理される。それは抒情に流されるのを良しとしないヴァルダの硬質な精神がなせる編集の技なのか。思うようにならない人生を嘆きながらも軽やかに生きるヴァルダの骨頂だろう。
全編にわたり夫であるジャック・ドゥミ監督へのヴァルダの深い追慕の思いが基調に流れている。「シェルブールの雨傘」の監督ジャック・ドゥミはエイズで1990年に還らぬ人となったが、彼のことを話すヴァルダの表情は夢見るようであり、時には苦痛にゆがむが、これら一連のシーンが印象的で、このシーンがあるだけでこの映画の存在価値があると思ったほどだった。09年10月10日(土)から岩波ホールでロードショー。"http://www.zaziefilms.com/beaches/"

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■2009.6.12  痛快な快作!「ウルトラミラクルラブストーリー」
●この映画が実質的なメジャー映画のデビュー作である横浜聡子監督は今後注目すべき才能の持ち主である。デビュー作というものは作家がかかえている問題意識・テーマを半ば無意識的に、包括的に提示している場合が多いのだが、「ウルトラミラクルラブストーリー」は典型的な場合だろう。
舞台は青森県の海に近い町。やることなすことがすべて常識はずれのヘンテコ農業青年(松山ケンイチ)と訳あって東京からやってきた幼稚園の先生(麻生久美子)、青年のおばあちゃん(渡辺美佐子)、青年を診る医師(原田芳雄)、呪術師の女(藤田弓子)、女が勤める保育園の園児たち、そしてノゾエ征爾、ARATAなど。ストーリー性は特に起伏に富んでいるわけではなく、女に恋をした青年のトリックスター的な言動を中心に進んでいく。彼の振る舞いに奇妙なリアリティーがあるのは俳優、松山ケンイチの功績だろう。
まず、全編が青森弁で通されていること、そして農作業をする青年と幼稚園の臨時先生の女性を中心にすえたこと、これらが作品全体の基調としながら、中央ではない周縁性、地方性、正統ではない異端性、土俗性、呪術性、神話性などに軸足を置いた目線が画面のすみずみに行き届いている。
話の展開は荒唐無稽で強引である。農薬を浴びると脳が活性化するという脳、心臓が止まっても生き返る体、首がない人間との会話などの破天荒なエピソードが画面に異常な活性を与え、日常から飛躍した奔放なイメージが次々と展開する。それでいながら何故かおばあちゃんや青年の野菜つくり農作業を繰り返し描写する。
通常のドラマの進行を予想する観客の思いを軽々と裏切っていく痛快な演出は世の中にはびこる常識性を一つ一つひっくり返す作業でもある。奇跡的、不思議な出来事を重ねながら美しい森のなかで迎える結末も破天荒なものであった。
一見無鉄砲にみえる演出ながら現代社会が抱える中心的諸課題のいずれにも適確な視点をすえているところが並みの監督ではない。閉塞感を切り開く破れかぶれのエネルギーに満ちた才能に期待したい。

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■2009.1.24  圧倒的な存在感はどこから:「チェチェンへ・アレクサンドラの旅」(ソクーロフ監督)
●入社後最初に配属されたのがロシア音楽を扱うクラシック・レコードの編成の仕事だった。モダンジャズが好きだった私にはチンプンカンプンの世界だったが、屈指の音楽家のなかにロストロポーヴィチ、ヴィシネフスカヤがいたのがなつかしい。
●ソクーロフの「ロストロポーヴィチ人生の祭典」はカザルスと並び称される稀代のチェリスト、ロストロポーヴィチのドキュメンタリーである。ソルジェニーツィンへの熱烈な支持の故、政権から弾圧を受け、20年に及ぶアメリカ亡命生活をした後、体制変革後ロシアに帰り、音楽、政治への積極的発言を続けたことは有名だが、そうしたエピソードを織り込みながら、饒舌ともいえるほどに喋り捲るロストロポーヴィチのインタビューを中心に構成されたものだった。そのなかで、印象に残ったことがあった。
彼の妻でこれまた最高のソプラノ歌手のヴィシネフスカヤについての出自にふれるくだりで、彼女はスラブ系とロマ(ジプシー)系の混血であるとナレーションが述べていたのである。彼女はその後、オペラ歌手を目指していくが、エリートの子弟が集まる歌手志望者のなかでも異色の才能を発揮して上り詰めていったことは想像できる。
また、アメリカへの亡命を決めてから、夫ロストロポーヴィチがロシアの大地を離れるつらさ、悲しさに毎日のようにめそめそ泣いていたのに、彼女は昂然としていたという。このエピソードをどこかで読んで、私はふと、彼女の強さは民族・祖国を相対化するロマ的な能力と無関係ではないのではないかと思った。
一方ソクーロフもものごとを把握したり理解するときには対象をみごとに相対化する。昭和天皇ヒロヒトの終戦にまつわる数日間をドラマ化した「太陽」は昭和天皇を鮮やかに相対化し、日本人がやらなければならなかったけれど、タブーに縛られできなかったことを実現してしまったのである。
そしてソクーロフ最新作「チェチェンへ・アレクサンドラの旅」である。
●主人公アレクサンドラはロシアの占領地チェチェンの駐屯地に勤務する孫の大尉デニスに会いにやってくる。兵士たちと同じテントに泊まりながら数日を過ごす。イスラム信仰に生きるチェチェンの最前線で占領者ロシア兵士の祖母という居心地の悪い立場にいながら、体制の枠組みを相対化して自然な振る舞いを繰り返し、チェチェンの街中に繰り出していく。カメラはロシアに空爆されて瓦礫の山と化した街並みと生活物資のマーケットに生きる女たちを静かに捕らえる。占領者と非占領者という図式にはまらずに視線を低くし人間としてのつながりに未来を見つめようとするソコーロフの思いか。
●この映画はヴィシネフスカヤ抜きではありえないほど、彼女の存在が決定的な役割を果たしている。あらゆるこの世の矛盾・相克を飲み込み、なにかを湛えるような彼女のまなざしがあってはじめて可能になった映画であろう。オペラ歌手としての豊穣な表現力や生きてきた人生のもろもろにくわえて彼女のロマの血が根底にあるような気がしてならない。非定住の生活をしてきたロマは訪れる先々の宗教や民族的対立を相対化しながら、時には生きるためなら改宗もしながら、自由な生活を守ろうとしてきた。ヴィシネフスカヤの体を流れるロマの血はロシア・チェチェン紛争における人間の真実の瞬間を垣間見せてくれたのである。

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■2008.12.19  今年の映画ベスト・ワン「ザ・ローリング・ストーンズ シャイン・ア・ライト」
○マーティン・スコセッシ監督はとても好きな監督である。昨年、彼が「デイパーテッド」で初めてアカデミー賞を取ったときには、アカデミー賞嫌いの私の「かれはアカデミーを取らないほど優れた監督だ」という評価がゆらいで残念だと思ったほどだ。
「デイパーテッド」は香港映画「インファナル・アフェア」(2002年監督アンドリュー・ラウ)のリメイクであり、それでアカデミー賞というのはスコセッシほどの監督に失礼である。(「インファナル・アフェア」は暗黒映画の匂いが充満する名作であった。)
彼はロックの最盛期に青春時代をおくったこともあり、音楽関係を扱った作品も多いし、過去の作品にもストーンやディランなどの楽曲が使われている。
ボブ・ディランのドキュメンタリー「ボブ・ディラン ノー・ディレクション・ホーム」も刺激的なドキュメンタリーだった。これは過去のディランの記録映像をモンタージュして要所に現在のディランのインタビューを挿入するオーソドックスな手法ながら、編集技術の冴えで見ごたえがあった。
「ザ・ローリング・ストーンズ シャイン・ア・ライト」は2006年ニューヨークでの2回にわたるライブを熟練の撮影チームがコンサートの全体像と楽屋裏を縦横に撮影したドキュメントで、音楽映画の枠を超えた普遍性を持ちえた傑作になった。
なかでも特筆すべきはミック・ジャガーとキース・リチャーズに焦点をあて、かれらの肉体のヒダまで掘り起こすかのような画面である。ミック・ジャガーの俊敏・敏捷は彼の当時63歳という年齢を考えればビックリするし、キース・リチャーズの顔に深々と刻まれた皺をみていると人生を感じ、何故か感動してしまうのである。
 音と映像の方法論を熟知した名人スコセッシが達した映像の冴えはローリング・ストーンズに距離を置いてきた人(私も・・)にも彼らのキャリアがただならぬものであることを有無を言わせずに納得させる。
 遥か昔にみた1958年ニューポート・ジャズ・フェスティバルのドキュメンタリー「真夏の夜のジャズ」( バード・スターン監督)で味わった心躍る体験以来のものだった。
とにかくスコセッシの映画には人間観察のしたたかさと、柔軟な視点が散りばめられている。そこにはシチリア系イタリア移民の家系に生まれ、人間の矛盾や不条理が引き起こす暗黒を見つめながら、人間救済の手がかりを追求してきたスコセッシ独特の複眼的視野がある。
ローリングストーンズの音楽にはある種の無頼性と混沌があるが、そこからある種のカタルシスを見出すような輝きがあり、そうした輝きがスコセッシの体質に強く共振・共鳴したのだろう。
よって音楽的感動の強烈さ、映画的興奮を再認識させた意味もあり、独断と偏見に満ちた私の今年のベスト・ワンである。

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■2008.12.01  映画「シリアの花嫁」:ローカルであればこその普遍性
○1967年の第3次中東戦争でイスラエルが占領し、シリアとその領有を巡り係争中のゴラン高原。そうした分断状況に生きるイスラム教ドゥルーズ派一家の娘の結婚とその家族の再会の1日を描いた映画「シリアの花嫁」は苛酷な現実世界を描きながら人生への希望をにじませる佳作である。
 結婚式の日は花嫁モナにとり最高に幸福な日になるはずだが、彼女も姉のアマルも悲しげだ。一度"境界線"(現在の軍事境界線)を越えて花婿のいるシリアに行くと、2度と家族のもとへ帰れないからだ。この地域の住人たちは望めばイスラエルの国籍を取得できるのだが、ほとんどの住民はシリア人としての帰属意識が強く、イスラエルがシリアを国家として承認いないために結果的に「無国籍者」になる。モナの父親は熱烈なシリア・ナショナリストである。
 父とロシアから帰国した弁護士の長兄との溝、アマルと夫との間のトラブルなどが家族の間に次々と起こるなかで進行する結婚式の準備。挿入される民族色多彩な歌が効果的だが、惜しむらくは歌詞がない。多分アラビア語、ヘブライ語などの古謡の意味が分かる人が翻訳者にいなかったのだろう。
国家・民族間の解きがたい難問と家族が抱える諸問題がダイレクトにつながる様相のなか、花嫁は無事境界線を越えられるか、というスリルを含みつつラストに向かって進んでいくが、重いテーマをかかえながらも、話の展開は軽快なテンポで、時にはユーモラスである。
 登場人物に真の悪人がいないのが、救いである。国家・組織をバックにする役人・軍人なども人間くささを見せ、どこか憎めないところを俳優たちが上手く表現している。シナリオの人物像の彫りが深い故だろう。 ラストは未解決な問題が横たわるなか、境界上を歩いてシリアへ進むモナを見守る姉アマルの顔のアップで終わる。それは映画の冒頭のアマルのアップ表情に回帰するようである。笑みを浮かべたかのような表情が意味するものは決意だろうか、可能性だろうか。謎めいた余韻である。
俳優たちがすばらしい。特にアマル役のヒアム・アッバスは激情を内面にためこむ張り詰めた表情が秀逸で、画面全体に緊張感を生んでいる。
中東地域の複雑な歴史・民族・宗教的背景を抱えた人物群像に対して中東以外の人々が普遍的な共感を寄せることは容易ではないが、アラブ世界やドゥルーズ派に深い知識を有しながら、なおかつ現代的で複眼的な視点を併せ持つこの映画の視点には中東問題解決への希望を感じさせるものがある。
監督はイスラエル人のエラン・リクルスで2004年モントリオール世界映画祭グランプリ作品。2009年2月21日より岩波ホールでロードショー。

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グルジア映画「懺悔」から連想する

■2008.10.20  グルジア映画「懺悔」から連想する
○グルジア映画「懺悔」(監督 テンギス・アブラゼ)をみた。正確にはソビエト連邦時代のグルジア共和国で1984年に製作されたソ連映画である。ゴルバチョフのペレストロイカ(改革)をある意味で象徴・予見した作品として半ば伝説化していた映画だが、日本では公開されず、今回、24年ぶりに年末から公開されることになった。
 旧ソ連邦時代、架空の地方都市の独裁者の生死をめぐる話はスターリン時代の粛清を想起させる。密告・逮捕・強制収容所行きが横行した暗黒時代に己の信条に生きた画家一家の悲劇的運命と流転を生き残った娘の回想で運ばれるストーリーは暗く、重い。1984年の製作ということで、まだ公開される展望が見えないままの映画の完成だったのだろう。
  1985年、ゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任し、翌86年からのペレストロイカ政策の展開していくある種の熱気のなかでモスクワで1987年に公開され、大ヒットした。メディアがグラースノスチ(自由言論)の風潮のなかでそれまで封印されてきたスターリン時代の負の歴史の事実を明らかに語り始めたなかでの公開だった。
その後のソ連崩壊、冷戦終焉、9・11以来のイスラム圏の登場、イラク戦争と激動を経てきた現在の我々からの視点でこの映画を見れば、さすがに歴史の波を越えられない時代的限界を感じないわけではない。が、最近のロシアのグルジアへの露骨な締め付けを見れば、映画制作時のグルジアと今のグルジアの状況は大して変わっていないようにも思える。
私も1983年以降、ソ連時代のモスクワを数度訪れたがコーカサス3国のグルジア、アゼルバイジャン、アルメニアなどに関する情報は少なかった。モスクワではグルジアワインがとびきり上手く、市内のグルジア調理店アラグヴィには頻繁にロシア・ジプシー一家の流しが現れた。後年、2002年インドからのジプシーの末裔が存在するという情報を得てアルメニアに行ったのがコーカサスへのはじめての旅だった。
とにかくこの地域の複雑に絡んだ歴史的、民族的な流れを把握することは容易ではない。日本に住むひとにロシアとグルジアとの歴史的・民族的確執を分かりやすく説明することは非常に困難である。そのむずかしさはヨーロッパやロシアそしてコーカサスの非アジア系の人々に日本列島と朝鮮半島との歴史的・民族的確執などを説明することのむずかしさに通じるものがある。
映画「懺悔」はそうした限界を超えて尚、人間の意志の強固さがどこから来るのかを訴える作品であり、豊かな人間の感情のほとばしりにあふれる作品である。
公開2008年12月20日より岩波ホール

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貧困への切り込みとしての神話

■2008.6.05  貧困への切り込みとしての神話:ポルトガルの異才ペドロ・コスタの最新作「コロッサル・ユース」
○平日の夕刻の映画館には10名ほどの観客。あまり予備知識もなく、単にポルトガルの映画監督作品というだけで入った。カンヌ映画祭で退場者続出だったという話を後で知り、なかば納得したくらい果敢な挑戦に満ち、刺激的な映画だ。
しかし、少なくとも私にとっては画期的な作風をもった映画作家ペドロ・コスタの登場である。(前作「ヴァンダの部屋」も話題を呼んだらしいが、未見)ポルトガル、リスボン郊外のスラム街が取り壊され、こぎれいな団地に移住させられる話が、筋といえば存在する程度である。ドキュメンタリーとかなんとかいう議論はほとんど意味がないほど、映画そのものだ。
この映画の功績は主人公にヴェントゥーラという現地の素人を発見したことに尽きる。それくらい「隠者にして破格のオウトロー」(ペドロ・コスタ)で荘厳な雰囲気をまとった初老の男が主人公だ。ヴェントゥーラは北アフリカからの移民で身よりもなく長い間リスボンなどでつらい日々を刻んできたというようなことがなんとなく分かってくる。映画は、立ち退きの苦労と妻からの離別という現実に打ちひしがれながら、数人の"子供たち"を訪ねるシーンがつらなる構成。寡黙な女もいれば、麻薬治療中のヴァンダのように出産時の痛みを延々と話し続けるものもいる。乞食を生業にする息子が戻る等々。
ヴェントゥーラとの実際の関係が決して明らかにされない数人の"子供たち"の話を聞きながら、古い家と新しい住まいを行き来し、家から小屋へ、部屋から部屋へと渡り歩く。
饒舌に話す"子供たち"の話は現代の祭文語りのように響き、それをただ聞くだけのヴェントゥーラの徹底した寡黙が何かを象徴しているかのようであり、身のこなしひとつひとつが何故か優雅であり、ゆったりした彼の動作が心地よい。
人間の関係もよく分からないままに、ヴェントゥーラの世界に引き込まれていく。
離れていった妻へ思いが、繰り返される詩の朗詠は21世紀の神話語りを聞いているかのような余韻がただよう。グルベンキアン美術館でルーベンスなどの名画に囲まれ豪華な椅子に座るヴェントゥーラのシーンのはっとするような美しさ。
「知性にあふれ優しく荒々しい」スラム街の住人たちを見つめ続けるペドロ・コスタの視野がゆるぎなく透明で、目線は低い。これらは少人数の撮影スタッフでスラム街にアプローチしていく手法とマッチして新鮮な映像表現を可能にしたといえよう。 4人という最小スタッフによる小型DVビデオ撮影の成果が効果を上げている。アップ気味のローアングルに徹し、徹底的な長廻しを基本に、カメラは静止し続けズームはない。ラスト近く外界風景に一度だけパン移動という法則性が貫かれる。照明は美術館以外のシーンはほとんど自然光だけで撮影したらしいが、光と影で感情の機微までを表現しようとする強い意志を感じる。
2年間にわたりスラム街に通いカメラへの違和感をなくし、ヴェントゥーラたち住民と接触を深く重ねた信頼感がしのばれ、つらい神話的叙事詩のような現実世界に情感が沁みだしてくる異色の傑作である。
詩の内容:
「お前に10万本の煙草を贈りたかったのに、両手で数えきれない流行りの服、車もひとつ、お前がずっと憧れていた溶岩のかわいい家に、はした金で買う花束も、でも、なによりもまず、うまいワインを1本空けて、僕のことを想ってくれ。素敵な言葉を身につけるよ、僕ら二人のためだけの、僕らにぴったりの言葉を、まるでやわらかい絹のパジャマのように。」
題名は「途方もない若さ」はヤング・マーブル・ジャイアンツの同名アルバムから連想されている。ポルトガル原題は「Juventude em marcha」。英語題「Colossal Youth」 映画のHP

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■2008.1.29  映画「ジプシー・キャラバン」と「クロッシング・ザ・ブリッジ」をみて
映画「ジプシー・キャラバン」はルーマニア、マケドニア、スペイン、インド、4カ国のジプシー音楽グループが6週間にわたり北米諸都市を巡るライブ・ツァーのドキュメンタリーである。
出演者は5グループ。ルーマニアのタラフ・ドゥ・ハイドゥークスはツィンバロムを中心に、バイオリン、ネイ(笛)、アコーディオン、ダブルベースなどが加わる弦楽器編成で、バンドの象徴的存在であった最長老ニコラエ・ネアクシュは映画編集中に死去した。ルーマニアからのもう一つのグループはブラスバンド、ファンファーラ・チョクルリーア。スペインからはフラメンコ・ダンサーのアントニオ・エル・ピパ。マケドニアからはジプシー・クィーンの異名をもつ大歌手エスマ。インドからは今やヨーロッパなどでの公演で活躍しているラージャスターン州出身のグループ、マハラジャ。ドーラク、ハルモニウム、サーランギそしてヴォーカルとダンサーという典型的編成だ。
いずれも国際的に活躍しているジプシー(ロマ)のミュージシャンである。タラフ・ドゥ・ハイドゥークスは何度も日本公演を行っているし、エスマも2001年に来日して、強烈な印象を残している。
この映画の面白さは彼らそれぞれのオリジナリティある音楽を楽しむことはもちろんだが、彼ら同士が互いに感じる違和感・異質性を描写する場面だ。特にツァーの初期のシーンは興味深い。同じジプシーという出自を持ちながら異なった風土に育まれた彼らはそれぞれの音楽の違いに戸惑い、違和感を実感する。せっかく、ビッグなグループが共演するのだから、ジョイントするシーンを演出したいプロデューサーが仕組んでも強烈過ぎる個性集団は一つに同化できないのである。エスマの歌にはスペインのグループは乗れないし、ルーマニアのグループはたちすくんでいるだけだ。こうした描写は監督の意図を越えて、ジプシーミュージックの多彩さ・豊富さを物語るものとして興味深い。
さらにツァーの描写の合間に、それぞれの出身地を訪ね、出演者の育った風土と人びとをとりあげている。ここはやや月並みな描写ではあるが、ジプシーミュージックが育った背景を語るには重要なシーンである。マケドニア、スコピエのジプシー集落シュト・オリザリにおけるエスマの社会的奉仕活動、スペイン、アンダルシア地方でのアントニオ・エル・ピパの教室風景、ニコラエ・ネアクシュが故郷の村でのびのびと話す様子は心地よいシーンである。
6週間の長いツァーを経るなかで、徐々に彼らがお互いの同質性と異質性を冷静に認識し始め、それぞれに敬意を払うようになってくる。人間的には皆、解放的でざっくばらんな彼らが、同じジプシー(ロマ)でもいろいろ存在するのだということを、改めて確認する。これらのことを暗示する数々のシーンが丹念に挿入されている。
ただ、彼らの音楽を楽しもうとする人にとっては、少々欲求不満が残るかもしれない。せめて各グループの1曲くらいはキチンと聞きたい。ほとんどの曲が中途半端でカット変わりして飛んでしまうのが、わずらわしいし、疲れる。監督の製作意図は音楽自体よりジプシー(ロマ)の内包する多くの問題を盛り込もうとしたのだろうが、意欲倒れの感がある。
だが、これだけ豪華な出演メンバーのツァーのドキュメンタリーを企画し、長期にわたり撮影したことには敬意あるのみ。彼らの音楽に接することができたことは至福の時間であった。監督はジャスミン・デラル。
「クロッシング・ザ・ブリッジ~サウンド・オブ・イスタンブール~」は題名の通り、東西文明の十字路イスタンブールに息づく多彩な音楽シーンのドキュメンタリーである。監督はファティ・アキン。「愛より強く」でベルリン国際映画祭・金熊賞を受賞し、今、油が乗っているドイツを代表する俊英監督で、自身もドイツ生まれのトルコ系2世。
「愛より強く」で音楽制作を担当したドイツの前衛バンド、アインシュテュルツェンデ・ノイバウテンのギタリスト/ベーシスト、アレクサンダー・ハッケが自ら録音機材を携えてイスタンブールの実に多種多様な音楽家たちを訪ね、時には自らもセッションに参加しながら録音の旅を続けていく。出演するミュージシャンたちのジャンルには驚くべき多彩さ、広さがあり、東西文化が複雑に混在するイスタンブールの独特な魅力さをあらわしている。オルタナティヴロックからヒップポップ、スーフィー風、路上のミュージシャン、ハルク(民謡)、ジプシー音楽、クルド音楽、アラベスク(演歌)、ポップスなどなど驚きの世界だ。
どのミュージシャンも、個性的で魅力的だが、印象に残ったものは、1.エルキン・トライ:トルコ語のロックの先駆者、トルコ音楽を電子楽器で演奏した最初のミュージシャンの1人。異端者であり、新ジャンルの先駆者として、若者からも崇拝されている。2.セゼン・アクス:トルコポップスの女王。「イスタンブールの声」と呼ばれ、階層や世代を越えた国民的歌手。遥か昔のイスタンブールをテーマにした名曲「イスタンブールの思い出」を歌うが、言葉に込められた感情の深さが滲み出してくる絶唱である。3.オルハン・ゲンジュバイ:トルコ最高のスター、映画俳優でもあり、トルコの演歌であるアラベスクのビッグスター。また、サズというリュート属の弦楽器の名手。ライブをしない主義の彼が映画のためにサズを奏する。
その他10グループ(人)を越える個性的な音楽家が出てくる。その中にはクルド民族出身の歌手アイヌールも出てくる。この方面の音楽に関心のあるものには見逃せない貴重な情報がぎっしり詰まった内容だ。全体はアレクサンダー・ハッケの視点で統一されており、映画としての完成度も高い。

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■2007.12.19  トニー・レオン讃 ~映画「ラスト,コーション」
○名匠アン・リー監督の最新作「ラスト,コーション」は中国現代史のなかでも「政府が裏切り者とみなされていた、歴史の穴とも言える空っぽな時代」(アン・リー)を生きた二人の男女のものがたりである。
日中戦争の最中、重慶の蒋介石国民党政府の内部対立者、副主席汪精衛を日本が擁立して汪政権が成立し、重慶政府は汪精衛を裏切り者として、上海に秘密テロ工作機関を送り込んだ。トニー・レオンが傀儡政権特務機関の顔役イー。イーの暗殺を狙う女スパイ役ワン・チアチーに新人タン・ウェイが起用されている。
物語は当時の国際都市上海と香港を舞台に流麗な運びで進行する。2人の禁断の愛が映像表現上かなりリアルに表現されるが、時代背景の切迫感・焦燥感が丁寧に描かれているので、より説得力、迫真性が強い。
私は158分のやや長い物語をオペラに身を委ねる如く堪能したが、なんといってもトニー・レオンの俳優としての力量に魅了された。
今、世界中の映画界を見渡しても彼ほどの俳優はいないと思えるほどだ。ウォン・カーウァイの「欲望の翼」「恋する惑星」「ブエノスアイレス」「花様年華」、ホウ・シャオシェンの「悲情都市」、そして「インファナル・アフェアー」等々、まばゆいばかりの俳優経歴。
彼の場合は、演技のうまさなど俳優術もさることながら、彼がかもし出す甘美で憂愁な雰囲気、陰影ある人物造形などは天賦のものだろう。これほどの陰影感がありながら、花がある男優はアジア人のなかでは「雨月物語」(溝口健二)「乱れる」(成瀬巳喜男)などの森雅之以外に思い浮かばない。
アン・リー監督は2005年の「ブロークバック・マウンテン」に引き続き2007年にも「ラスト,コーション」で2度目のヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞したことからも彼の存在感の重さが伝わる。尚ラスト,コーションLust CautionのLustは仏教用語の"欲情"を、Cautionは"戒め"を意味するらしい。公開は2008年2月2日シャンテ・シネ、Bunkamuraル・シネマほか。なお原作はアイリーン・チャン短編集 ラスト、コーション 色|戒 集英社文庫


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■2007.11.09  人間の業を引受ける潔さ:映画「サラエボの花」から
○ボスニア・ヘルツェゴヴィナの映画「サラエボの花」は一見の映画である。1992年、旧ユーゴスラヴィアが解体していくなかで勃発したボスニア内戦は、死者20万人、難民など200万人の多大の犠牲の上に1995年に一応の決着をみた。この近年の最悪の紛争はバルカン半島の複雑に絡み合った民族と宗教が背景にあり、我々にはなかなか理解しにくい地域である。ちなみにボスニア・ヘルツェゴヴィナを構成する民族はムスリム人(イスラム教徒44%)セルビア人(セルビア正教徒31%)クロアチア人(カトリック教徒17%)。1992年に旧ユーゴからの独立を問う住民投票を契機に3民族の利害が対立して紛争が勃発した。
昨年夏に旧ユーゴの一つマケドニアでジプシー<ロマ>の集落、シュト・オリザリに滞在した。そこで私はまだこの紛争が現実に日常生活に影響を及ぼしていることを経験した。ボスニア内戦が収まってからもセルビアのコソボ地区からロマの難民がシュト・オリザリにも流入して様々な問題を起こしている。旧ユーゴ地域の状況を知るためにもこの映画は見たかったものである。
舞台はボスニアのサラエボの一地区グルバヴィッツァッであり、ここは戦争中はセルビア人勢力に制圧されていた地域である。映画のテーマはこの時期に起こった深刻な事実が12年経過した現在でも人びとの生活のヒダまでも影響していることを描いている。シングル・マザーのエスマとその娘サラが軸になりそれらを取り巻く人びと、こどもたちにも視点は及ぶ。未だ貧困から抜けだせない市民が必死に職を求め、生きる日常生活を丁寧に描きながらも、それらの表情は深く重い影を湛えている。俳優陣が実にいい。演技を越えた自然さがあり、それだけに説得力を増す。当時の苛酷な体験を一切描かずに、現在の日常生活を描きながら、過去の深刻な事実を想起させていく手法は見事なものだ。通常は、フラッシュ・バックなどで挿入するのだが、一切そうした気のきいたテクニックは使わず、さりげない伏線をちりばめてある。ボスニアの町の冬の寒々しい光景が身に沁みるほどだ。カメラマンの力量もただならぬものである。
また各シーンで重要な役割を担う音楽の使い方も効果的であり、画面にふくよかさを醸成する。
ラスト近くにはエスマが体験した苛酷な事実とこの母娘の背負った宿命が一挙に明らかになり、その重さにたじろぐ思いだが、この監督の視野は広く、深いのだ。人間の業を引受ける潔さがまぶしい。監督が女性だから生み出せた映画だろう。ヤスミラ・ジュバニッチ監督、33歳、長編第一作。2006年ベルリン映画祭金熊賞他多数の映画賞を受けたが、末恐ろしい才能の出現だ。12月1日から岩波ホールで公開。

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